川のような、湖のような水域が目前に広がる。時折、行き来するフェリーが、ここは海だと知らせてくれる。対岸まで一〜二キロしか離れていない児島湾最奥部。細い湾口を隠すように陸地や山並みが重なり合う。日本書紀にも記された「吉備の穴海(あなうみ)」を実感する。
児島湾に注ぐ吉井川と百間川(旭川放水路)に挟まれた岡山市九蟠から豊田、升田にかけては、江戸時代から干拓が行われてきた。塩抜き用の水路だった「瀬回し川」に囲まれた耕地が延々と広がる。五千五百ヘクタールに及ぶ児島湾干拓の一端をうかがわせる。
立ち並ぶ小屋
この広大な干拓地と海を仕切る堤防沿いに、五十棟余りの「四つ手網漁」の小屋が海上に突き出るように立ち並んでいる。大半の小屋は、占有許可を受けた漁業者が、一般の釣り客に貸し出すために建てた観光遊漁施設だ。
五〜八メートル四方の網を、交差させた二本の棒で平たく引っ張った上、小屋から伸ばした腕木に取り付けている。夕刻から未明にかけ、海底に十五〜三十分間沈め、水面(みなも)近くの集魚灯でおびき寄せた魚をすくい上げる。
浅海にすむアミエビ、セイゴ、ハゼなどが狙い目で、六月に入って特産ベイカが旬を迎えている。「雨が多かったせいか、今年はいまひとつですら」。三十年以上、同市豊田で四つ手網漁の小屋を営んでいる板野千歳さん(80)の表情は、いまひとつさえない。
かつては、船上で四つ手網を操り、生計をたてていた。「その一昔前は、投網だけで暮らしていけた。恵みの海じゃった」。干拓が進み、一九五七年には締め切り堤防が完成し、児島湖が誕生した。水質悪化が進み始め、特産だったモガイ、ハイガイ、シャコ、ウナギなどが姿を消していった。干潟漁業で潤った児島湾の豊かな漁場が失われた。
干拓で魚減る
四つ手網小屋が児島湾岸に初めて登場したのは六〇年ごろという。児島湖の誕生から間もない。干拓地の水問題を一気に解決したが、引き換えに環境問題をもたらした。板野さんも七〇年ごろ、二棟の小屋を建てた。
六月下旬に訪ねた板野さんの小屋で、岡山市野田の会社員板野圭史さん(49)ら職場のグループと出会った。小屋には台所があり、とれたての魚を調理し、その場で味わえる。「仲間と一緒に釣りを楽しみ、食べて飲んで過ごせる。釣果は少なくても満足です」
客足は伸び悩んでいるが、常連も多い。「年寄りの小遣い稼ぎには十分。本当にええ海ですら」と板野さん。小屋からは釣り客の笑い声が響き、連なる集魚灯の光跡が穏やかな水面で揺らいだ。
2004.7.4
写真・荒木肇、文・古川竜彦