酷暑。容赦なく照り付ける日差しがうま味をひき出す。ちりめん作りが最盛期を迎えた愛媛県菊間町の田之尻地区。漁港近くで天日干しの作業が続けられ、ひときわ濃い磯の香りが漂う。
「いお(魚)本来の風味を損なわず、甘みもでるんよ」。ゆで上がったばかりのちりめんを台に広げる越智美代子さん(66)。機械乾燥に切り替える加工場が増える中、天日干しにこだわる。
一気にゆでる
越智さん方は、漁から加工、販売まで手掛ける網元。「袋待ち網」と呼ばれる漁法で、魚の回遊ルートを読み、袋状の網(全長約四百メートル)を仕掛けて待つ。漁を仕切る長男欽哉さん(44)に同行し、沖へ出た。
漁場は沖合約一・五キロ。ポイントを探るため三十分近く光徳丸(一〇トン)を走らせ、「よし、ここだ」。大型ドラム(直径約三メートル)を回転させ、網を繰り出す。魚群探知機もあるが、その日の潮や水温などによって通り道が変わるため、「やはり経験と勘が頼り」と言う。
約一時間後、ウインチがうなりを上げた。網の先端にある袋を甲板に引き上げる。漁獲量は二十キロ弱。「不漁、本当に不漁だ」と機嫌が悪い。袋を海中に戻し、さらに待つこと一時間。二回目は五百キロ以上で、「まずまず」と笑みがこぼれた。
まだ気は抜けない。「鮮度が命」。大量の氷でしめ、一目散に持ち帰る。漁港近くの加工場では、携帯電話で連絡を受けた妻京子さん(44)らが釜の温度を上げて準備。一気にゆで上げる。加工場近くで漁ができ、数分で運べるのは、瀬戸内海ならではの強みでもある。
14年前脱サラ
欽哉さんは「脱サラ漁師」。中学時代から野球に没頭し、今治西高では夏の甲子園(一九七七年)でベスト4に。岡山市内の大学へ進学後も野球を続け、そのまま食品関係の会社に就職。「漁師になる気はなかった」
転機は十四年前。母美代子さんが体調を崩し、帰郷を求められたのが直接のきっかけだった。デパートやスーパーを営業で回り、夜中まで伝票整理に追われるサラリーマン生活に疑問を感じ始めていた時期でもあった。
「仕事はきついが、自然界にいた方が性に合う」。父清三郎さん(71)のもとで十年間働き、四年前、かじを譲られた。
Uターンしたころは「もう、こらえてくれ」と言うほど漁獲量は多かった。が、最近では当時の半分以下。町内の同業者も半分の四軒になった。先行きへの不安は募るが、遠方から買いに来てくれる客も増えつつある。「へこたれてなるものか」。元高校球児は舞台をふるさとの海に変えて、踏ん張る。
2004.7.25
写真・田中慎二、文・三藤和之