海峡めがけ、大型貨物船や旅客船が列をなす。船舶を導き、航路の安全を守る灯台。夜の漆黒が増すにつれ、海門の幅は一段と狭く感じた。
来島海峡が一望できる糸山公園(愛媛県今治市)。眼前には、三つの水道をまたぎ、自転車・歩行者道もある来島海峡大橋が延びる。その「ウズ鼻灯台」があるのは、最も四国寄りの西水道を隔てた馬島。電気がきていない島だった。
71年に送電線
最初の橋台がある馬島まで第三大橋(千五百七十メートル)を歩いて三十分ほど。周囲約四キロの島で、総代の桧垣光男さん(78)によると、住民は十三世帯、三十人。電力会社の送電線が完成したのは一九七一(昭和四十六)年十二月だった。翌年二月、灯台も電化された。
「そこそこの人口がある愛媛県内の島では最後だった。電気がきて、そりゃ助かったよ」と桧垣さん。当時、芸予諸島に電力を供給していた中国電力(広島市)の管轄地域だった。「本州から一番遠いし、住民も少ないから遅れたと聞いている。潮が速いから海に電線を通すのも大仕事だったと思う」と続けた。
島民待望の電気導入―。島の玄関口だった漁港に記念碑があり、誇らしげに刻まれている。
電気がくるまで、小さな自家発電機でしのいでいた。その発電機が島に据えられたのは、五五(昭和三十)年ごろ。住民がお金を出し合い、近くの島から中古品を譲り受けた。
燃料節約のため発電は夕方から午後十時まで。それ以降は昔ながらのランプ、ろうそくだった。「導入したのはほかの島より遅かったけど、特に子どもたちは大喜びだったよ」。発電所跡を案内してくれた最年長の塩見孝義さん(83)が笑った。
庭にも見物人
塩見さんは島で最初に新品のテレビを購入した。小学生だった三男にせがまれ、学校で優等の成績を取ったら買うと約束。「本当にもらってきたので五万円をはたいた」。家族だけでなく、プロレスや歌謡番組を見に来る人が座敷に納まりきれず、庭に長いすを出してさばいた。テレビのおかげで住民の結束はさらに強くなった。
後には電気冷蔵庫や炊飯器、洗濯機も使えるようになり、家事もはかどるようになった。「ランプのほやを毎朝掃除したり、油を足したりする手間が省けてうれしかった」。早くから電気がきていた隣の大島(愛媛県吉海町)出身で、結婚前は大阪で事務の仕事をしていた塩見さんの妻イツエさん(79)が振り返る。
そんなイツエさんの宝物が自宅二階にある。子どもたちが深夜まで勉強する際に使っていたランプだ。「不便だったけど、みんなの成長を見守ってくれた」。点灯したまま寝込んでも誤って転倒しないようランプの台には重しが添えられていた。
2004.9.19
写真・田中慎二、文・三藤和之