「錨泊(びょうはく)して甲板にあおむけに寝ていると、星が揺れる。学生時代の思い出の多さだけは、だれにも負けませんね」
一度聞いたら忘れられない、腹に力が入る声。大島商船高専(山口県周防大島町小松)の教官三原伊文さん(57)は、神戸商船大四年の時のカッター巡航を思い出す。
カッターは十数人が手で漕(こ)ぐ舟艇。今も昔も船乗りの基本だ。神戸市東灘区の母港を出航し、途中、明石海峡は練習船にえい航されて淡路島へ。三泊四日の巡航では仲間同士、「卒業したら金を出し合ってヨットを持とうや」という話だけ盛り上がった。それから三十五年がたった―。
「一番きついのは、立って漕ぐことっすかね」「あと、突然、オールが折れて飛んだり…」
大島商船カッター部の主将宮本祐輔君(18)たちに聞くと、操船ははた目より難しそうだ。鉛を埋めたオールの重さは約五キロ。長く使うと水分で内部が空洞化し、擦れる部分が折れやすくなる。
掛け声で一丸
「アイ、ヨー、アイ。アイ、ヨー、アイ」
「艇指揮」の掛け声は学校によって違う。大島商船ではこの掛け声で、小松港沖へ漕ぎ出す。大畠瀬戸をまたぐ大島大橋は越さない。潮流に流され、動けなくなる。
「腕でなく背筋力で漕ぎ、手元で手首のひねりをきかせないと、オールを取られる。しかも、力を合わせないとね」
ついのすみか
長崎県対馬生まれの三原さんは、櫓(ろ)を漕いで魚を釣り、朝鮮半島を望む山で遊んで育った。商船大卒業後、十年の機関士の仕事を経て、一九八一年に大島商船へ。対馬には兄がおり、大島を「ついのすみか」に決めた。
「対馬はほとんど砂浜がない。初めて回った大島は集落ごとに砂浜があり、驚きました。二つの島の縁も来て知りました」
この夏休み、対馬の再発見を思い立ち、初めて南端の浅藻を訪ねた。明治以降、大島の漁民たちが近海に出漁し、無住の地を切り開いて定住した村。今は博多にブリを出荷する近代的な漁港がある。
「私と逆でしょう。よくぞこの地へ、と思うと胸が熱くなって…」
九月二十四日、航海訓練を終えた商船学科生たち四十二人が帆船独特の儀礼、「登檣(とうしょう)礼」で制帽を一斉に放ち、巣立った。中国景気で海運・造船業種の就職が久々にいい。三原さんもかつて、商船大を九月に巣立った。九月は船乗りたちの「春」だった―。
2004.10.3
写真・荒木肇、文・佐田尾信作