ぎらぎらした光ではない。暖炉を思わせるような柔らかさがある。それは農家の丹精を物語っているようだった。
能美島北部の三高地区。午後九時すぎ、谷あいに並ぶ温室に次々と明かりがともり始めた。闇に浮かび上がるのは電照菊のハウスだ。「だましだまし育てて、菊には申し訳ないんじゃが…」。三高花組合の原田卓美組合長(67)が律義に語る。
電照栽培は、日照時間が短くなるにつれて開花に向かう菊の性質を利用。夜間四、五時間、照明をつけて開花時期を人工的に調節する。露地ものよりも遅らせ、盆や年末年始など値が上がる需要期に出荷する。加温栽培などとの組み合わせで通年出荷もできる。
「三高の菊発祥之碑」。誇らしげに刻まれた石碑が農地の一角にある。先駆者が菊の栽培を始めたのは一九四八(昭和二十三)年ごろ。約二十年後、米生産調整の転作作物として定着し、生産量が広島県一になった経緯も記されている。
台風がつめ跡
碑が建立されたのは約二十年前。「色つやや端正な姿が評価され、産地として最盛期を迎えた時期だった」と原田さんが振り返る。現在の組合員は十六戸。往時の三分の一以下になった。後継者難、価格低迷、他産地の台頭など逆風にさらされる。さらに、今季は台風が追い打ちをかけた。
「今年は虫にも食われず上々の出来だったのに…」。山本満苗さん(45)が悔しがる。地区の中央を流れる木ノ下川沿いにあるハウスの被害が特に大きく、屋根部分の鉄パイプ(直径二センチ)が曲がり、ビニールも破れて飛散。ガリバーにでも踏まれたようだった。
1年中繁忙期
山本さんは、三高だけでなく、能美島で最も手広く菊を栽培している大規模農家。通年出荷しており、秋も繁忙期だ。花の切り取り、梱包(こんぽう)に続き、一輪咲きにするため余分な花芽を摘み取り、次の定植の準備もする。いつも家族総出だ。
数少ない後継者の一人で、西条農業高園芸科卒。「子どものころから、いいとか悪いとか選択の余地はなかった気がする。この名前で分かるでしょ」
半ばあきらめ顔の息子を前に「花きの荷受けで成功した人物にあやかろうと思って名付けただけよ」と父輝将さん(70)。ポーカーフェースを装うが、「不景気でもうからんが、よく働いてくれる」と小声で続けた。
満苗さんも、早くから規模拡大に取り組み、三高ブランドの確立に貢献した輝将さんに「根気強くて頭が下がる」と、もっと小さな声で評価した。親子のきずなが産地を守る。さらに、満苗さんの長男満彦さん(19)も「あとを継ぎたい」と言い出し、九州の産地へ勉強に出た。家族の丹精は脈々と受け継がれる。
2004.10.10
写真・田中慎二、文・三藤和之