「腰を荷台にストンと落としてな、何かにぎっといた方がええよ」
波しぶき眼下
祝島(山口県上関町)に上陸すると、平萬次さん(71)が耕運機で待ってくれていた。目的の棚田は歩くと一時間、耕運機でも三十分。車では行けない。ロケハンで一度乗った写真記者は楽しそうだが、こちらは恐る恐る荷台に乗る。祝島独特の練り塀の町並みを抜け、舗装路はやがて凸凹道になる。時折片側ががけになり、岩に砕ける波しぶきが真下に見える…。
「じいさんは八十歳で死ぬまで、田を開いておりました。先祖伝来の田はなかったんです」
ようやくたどり着いた三枚の棚田と見上げるような石垣。雑木で隠れたふもとまで、高低差は三十数メートル。萬次さんの祖父亀次郎さんは大正末期、この地で田を開いた。
祖父は萬次さんの父義治さんを四十歳で失ったショックで一時、開墾をやめたが、戦後、七十代で再びくわを振るい、昭和三十年代初め、今の四十アールの棚田ができた。成人した萬次さんも手伝った。ミカン畑にかなり変わったものの、二・五アールの水田は健在である。
「石はここから掘り出す。道具も作る。作業小屋では牛も飼うてね」
祖父は石工。夏はイワシ網漁師、冬は杜氏(とうじ)が副業だったマルチ人間。田を開く時、傾斜地の石は重力で下に落とし、てこで動かした。起重機も作った。牛に土を運ばせた台車のコロは今、小屋の玄米貯蔵タンクの台座として残る。萬次さんも働き盛りには石工で稼ぎ、現役を退いてからこの土地を耕し続ける。
見学客増える
「最近は草を刈ってくれる人、見に来る人が多い。防腐剤の廃油を黒く塗った小屋の色まで『これがええ』ゆうて…」
昨年、「石垣を讃(たた)える会」の佐々木卓也さんが調査して以来、世に知られるようになった。「平さんの棚田まで○キロ」の道標は控えめだが、頼りになる。見学する人を見かけると、ビワの葉をちぎってあぶり、お茶にして振る舞うこともある。
「かくて、石にも花は咲く」
「ものと人間の文化史 石垣」(田淵実夫著、法政大学出版局)という一冊で見つけた言葉だ。石垣は見かけの彩りこそないが、人の知恵と汗の「花」。「じゃけど、わしが死んだら後は原野に返るだけよ」。棚田の三代目のあるじは笑った。
2004.10.31
写真・田中慎二、文・佐田尾信作