「サラブエ」とは「猿笛」なのだろう。この島でそう呼ぶイスノキの下で、木の勾玉(まがたま)のようなものを拾った。「虫こぶ」という葉の一部。虫がはい出た跡なのか、二つある穴を吹くとヒューヒュー、音が鳴る。それは樹上でも鳴ったのだろう。
「佐川さんのサラブエが鳴る日は風呂のたき口に気をつけよ、という言葉がありました。強い風に気をつけよ、と」
山口県平生町佐賀沖の佐合(さごう)島(しま)。案内してくれた元薬剤師佐川渉さん(84)は島の生まれ。柳井市伊保庄の自宅から毎週、山仕事のため、島に渡る。集落はかつての風待ちの内湾に面し、背後の峰に登ると一転、「筏瀬(いかだのせ)」という列をなす岩礁の外に周防灘が広がる。
対馬まで出漁
生家はかつては豪農にして海商、塩田地主。約五百坪(千六百五十平方メートル)の屋敷は、風波を避ける石垣塀とイスノキなどの防火林が、母屋、農作業小屋、みそ蔵などを取り囲んでいた。父助三郎氏が一九七八年に亡くなり、数年後、解体。今は土蔵や塀、炊事場などが残されている。
「船ならばこそ、ですね。尼崎(兵庫県)あたりまで、風に乗れば一週間で往復した」
明治初期に船下ろしした佐川家の帆船・観音丸の銘板や「金刀比羅宮」の木札を自宅で見せてもらう。同家は柳井木綿を九州に運ぶ一方、生きたカレイやヒラメを京阪神に運んで稼いだ。漁船団「佐合組」は対馬近海まで出漁した時代だった。
常一のわび状
「古文書まだおかえし申していない由、まことに申しわけありません」
思わぬ人の「わび状」が保管されていた。古文書とは「佐川家文書」。山口県周防大島出身の民俗学者宮本常一が、水産庁の漁業制度調査のため五一年に借りたが、返却期限が過ぎた。宮本は肺結核で一時調査団を離れたが、借りて六年後、助三郎氏への年賀状で返却されていないことに心を痛め、その後、直筆で二通のわび状を出していた。
「ええ、文書は無事返ってきました。宮本さんの当時の離島回りは大変だったろうと、父は思い出していましたね」
わび状の末尾に「御地へ藤谷君という若い先生が…」とある。宮本とも助三郎氏とも親交があった藤谷和彦さん(73)。周防大島の自宅で、「みちしお学級」の名の古びた卒業文集を出してきた。
「『へき地』と言っても、甘やかさなんだ。何もかも勢いがあった…」
二十六歳で佐合小へ赴任した当時、四十人もいた受け持ちの高学年の児童たち。文集で語る夢は都会で実現できる夢だった。同小は六二年廃校。今、島の人口四十人。半世紀足らずの変ぼうを知るのは、人なのか、サラブエなのか。
2004.11.21
写真・荒木肇、文・佐田尾信作