瀬戸内海国立公園指定70周年
「ふるさとの海」  47.港町と古刹  浄土寺山(尾道市)

     盛衰見続け幾年月
       粋を凝らした伽藍
         信仰あつい住民と密着
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港町・尾道を一望できる浄土寺山。山頂下の浄土寺奥の院のいらかと紅葉が、船の行き交う水道を彩る
地図「尾道水道」

 標高一七九メートルと聞いていたが、はるかに高く感じる。尾道市市街地の東端、港の最奥部からそびえ立つ浄土寺山。山頂からは眼下に尾道水道が迫り、芸予諸島はもとより四国山脈まで一望できる。瀬戸内海とともに歩む尾道の盛衰を見続けている山だ。

 港町・尾道は中世に最初の黄金期を迎える。平安時代末期の一一六九年、備後国大田荘(広島県世羅町)の年貢米の保管・積み出し港に指定されたのがきっかけだった。船を引き込む水路のような水道が天然の良港となり、瀬戸内海海運の興隆とともに、主要港へと発展していった。

  船乗りの道標

 船の動力に加え、複雑な潮流も影響し、尾道水道の出入りは当時、西側に限られていた。その入り口近くにある鯨(くじら)島は、船乗りにとって大切な道標となっていた。鯨島を過ぎて船首を港に向けると、真正面に見えるのが浄土寺山だ。「船に乗る人にとって浄土寺山は特別な山だったはず。ふもとの浄土寺が、海に携わった人々のあつい信仰を受けたのも自然の成り行き」。尾道の歴史に詳しい市立美術館の森重彰文館長(54)がうなずいた。

 浄土寺は六一六年、聖徳太子の開基と伝えられる古刹(こさつ)だが、鎌倉時代を迎えたころには本堂を守る人さえいないほど荒廃していた。その再興に尽力したのが、海運、貿易で財を成した尾道商人だった。鎌倉時代末期、尾道に立ち寄った西大寺の定証に寺院再興を懇願、一三〇六年に堂塔を造営した。一三四五年までに金堂、多宝塔、阿弥陀(あみだ)堂を次々に建立していった。

  境内一般開放

 これらの伽藍(がらん)は中世日本を代表する建築物で、いずれも国宝、国重要文化財に指定されている。最高の職人と材料を集める力が尾道に備わっていた表れだ。当時の寺院建築の粋を凝らした商人の思いが伝わってくる。

 「尾道の商人に守られ、庶民に支えられてきた寺なんです」と、浄土寺の小林海暢住職(83)。室町時代を除き、時の権力者との結び付きは薄く、地元住民の信仰中心の寺だった。今も文化財の宝庫でありながら、境内は一般開放されている。観光客に交じって地元の家族連れの姿も目立ち、市民の愛着の強さがうかがえる。

 市重要文化財の屏風(びょうぶ)を公開する「源氏絵まつり」や茶会、薪能などの文化事業に力を入れるのも、「尾道のプラスになれば」との思いからだ。今月上旬には、バッハの調べが阿弥陀堂に響いた。

 モータリゼーション全盛の時代で、港にかつての存在感が失われた感は否めない。それでも、小林住職は「尾道には、歴史のはぐくんだ安らぎや和みを大切にする心の営みがあふれている。そうしたまちであれば、再び輝く時代はきっと来るはず」。門前の尾道水道をじっと見据えた。

2004.11.28

写真・田中慎二、文・古川竜彦


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