五色の水が天高く、放水されるフィナーレは、壮観だった。二月の第一日曜日。「源平放水合戦」と呼ばれる、恒例の出初め式でのことだ。
水圧は4倍に
岡山県最東部に位置する日生町。伝馬船に乗った消防団員九十人が、赤白に分かれ、十四本の筒先で放水し合う。相手までの距離は二十八メートル。消火作業用の水圧の四倍というから、顔や体に容赦なく当たる海水は、冷たいというよりは、むしろ痛い。海に転落することもある。
日生消防団は、地域ごとに六分団に分かれる。鹿久居島や頭島など、日生諸島を受け持つのが第四分団である。合戦前夜、頭島で開いた「作戦会議」に参加した。
現在、団員は二十六人。十三人が伝馬船に乗る。最先端の筒先を持つのは二人。そのうちの一人に、入団歴九年の松崎竜義さん(27)が、初めて選ばれた。高校を卒業後、れんが会社に務めた。昨年六月、カキ養殖をしていた父=当時五十四歳=が亡くなり、後を継いだ。
合戦に参加せぬ団員は、男として一人前ではないとされた。「海に生きる覚悟を決めたし、自分から手を挙げたんだよ」。合戦用の可搬式ポンプを整備しながら、松崎さんは力強く語った。
現在、日生漁業は、カキ養殖や定置網が主流である。「日生町史」によると、明治二十年代には、サワラなどを求め、朝鮮半島まで出漁していた。明治末期からは移住者も増え、最盛期には、五百人に達したという。
「祖父からは、遠洋まで出かけた自慢話を聞かされたもの」と、三代前の第四分団長だった中本喜庸さん(42)。日生漁師は近海でも、竹ざおで網を固定し、魚群を誘導する「つぼ網」と呼ばれる独自の漁法を、全国に広めるなど、その名をはせていた。
漁師町の意気あふれる「放水合戦」は、地元の人からは「水かけ」と呼ばれる。かつては焙烙(ほうろく)に、はさんだニワトリをめがけて放水していた。だが、互いの顔に当たってけんかざたに。「それなら、最初からかけ合おう」と、一九五〇年から、今の形になったという。
赤、黄、橙(だいだい)、青、緑の五色は、海水につけた食用の色子で作り出される。合戦とはいえ判定はしない。「勝ち負けは、水かけをする自分たちが一番分かっている」とは、消防団長の竹林勝士さん(61)の経験談だ。
浴室へ一目散
船上での「万歳三唱」が終わった後、第四分団の団員たちは、一目散に走りだした。近くのデイサービスセンターの大浴室に向かってだ。体はガタガタ震え、指先は感覚を失う。この日だけは、腹かけに、白シャツの合戦姿のまま、湯舟につかることが許された。
2004.2.8
写真・荒木肇、文・藤井礼士