瀬戸内海国立公園指定70周年
「ふるさとの海」  7.木造ミカン船 愛媛県中島町
     島の実り運んで40年
       足は遅いが荷は確実
         頑張れ「完宝さん」
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Photo
完宝丸のデッキに整然と積まれたイヨカンのキャリー。怒和島(後方左)から中島(同右)の南端をかすめ、1時間余りかけて大浦に着く
地図「愛媛県中島町」

 「潮がこっちへ向かいよるのが分かろうが」

 イヨカンを積み込んだ完宝丸(三八トン)は怒和(ぬわ)島(愛媛県中島町)を出港しても、一向に加速する気配がない。何せ建造して四十年になる木造貨物船。ポンポンポンと懐かしいエンジン音を響かせ、無理して潮にあらがうこともない。山本完船長(75)は、東隣の中島まで南回りで一時間余り、ゆっくりと舵を取る。

 ここは広島、山口、愛媛三県の海の三差路、惣那(くつな)諸島―。二月上旬の島々は温州ミカンの出荷を終え、イヨカン出荷の最盛期を迎えていた。五つの島から九隻のミカン船が中島へ荷を運ぶ。

  キャリー1000箱

 怒和島の上怒和から中島の大浦まで、完宝丸に乗せてもらった。デッキには約千箱のキャリー。体を横にして操舵(そうだ)室に潜り込むと、すぐ後ろに布団がたたまれた座敷があり、病院の薬袋やら缶ビールやら目に入る。

 「冬は家より船の方がぬくいんでー」

 木造船は一日三便も通うと日が暮れる。ジュース用のミカンなら松山まで運ぶから、そのまま船で寝る。今年はまだ二便どまり。船で寝るほど忙しい日はまだない。

 「わしらもお百姓さんも用がのうて、しかも価格が安いんよの」

 山本さんはミカン船では最古参の船主船長。十五歳で旧海軍に志願し、佐賀県の魚雷艇の特攻基地で敗戦。もう少し年かさなら、生きてはいなかった。復員し、ミカンがブームに向かう一九六二(昭和三十七)年、船大工の義父と一緒に船を建造。戦争の海から繁栄の海へ、人生にずっと船がついてまわった。

  期待背負って

 「完宝さんには『もう一年、もう一年』と頼み込んどるんですわ」

 上怒和でイヨカンを積み込む生産者の一人、中田誠二さん(47)が言う。木造ミカン船は低速で燃料を食わない分、運賃が安いが、怒和島―中島を請け負うのは二隻だけ。後継者がいなければ、フェリーに切り替える時期がいずれくる。それで引き合うかどうか、生産者には不安がある。

 「完宝さんは操船も大したもんなんでえ」

 この日、第二便の荷を積んで上怒和を出港する山本さんを見送った。浮桟橋に接触しそうになったが、うまくかわし、岸壁の人たちが「おー」とどよめく。その声に自分もなぜか唱和していた。

2004.2.15

写真・田中慎二、文・佐田尾信作


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