暖かい。しかし、山が揺れ動くような西風も吹く。里人は家の西側をツバキの木で覆い、風と塩を防ぐ。段々畑から見下ろす海岸線は岩場だ。同じ光市でも、白砂青松の虹ケ浜海岸、砂州でつながる象鼻ケ岬とは少し違うイメージの海もある。ここは光市の南東、東伊保木の里―。
ヤシの実漂着
「豊後水道に真っすぐ向かい、太平洋に開けてるからね、この海は。小さいころ、よくヤシの実が流れ着いてた」
この地に「椿窯」を起こして二十年。陶芸家の上田達生さん(53)を訪ねた。草創期を知る記者は彼の白いあごひげに内心驚く。素人が空き家を借りて始めた焼き物。今は椿窯だけでなく「岩屋快山窯」「美土里窯」の三つの窯元に育っていた。五月の「椿まつり」も健在。話すうち、ひげのない三十代の上田さんの顔が二重写しになる。
「毎日海を見て仕事をしてきた。明るい海よねえ。『光の海』だ」
光市の南東部の海岸は西から岩屋、西伊保木、東伊保木、五軒屋の四つの集落が細長く連なり、梶取岬に突き当たる。砂浜はほとんどなく、山がいきなり海に臨む。耕地は乏しく、昔の人は杜氏(とうじ)や木びきなど手に職をつけた。焼き物もまた、この土地の副業だった。
「『春一番』が吹くころの海はより印象的ですよ。風波で海中の藻が切れ、ヒジキ採りの季節になる。光のきらめきで春が来る予感がする」
シンガー・ソングライターでもある。「凪(なぎ)の座」というフォークバンドの発足から今年で三十年。高石ともや、笠木透たち音楽家と交流を重ね、旅し、酒を飲み、歌った。代表曲「光の海」(笠木透作詞)はこう歌う。
「みかんの木にみかん/その色あざやか/冬が来たのに/春の海面(うなも)」
しかし四年前、仲間でともに光市に住む中村俊道さん、久村栄二郎さんを相次いで病魔に奪われた。五十代の若さだった。一人残された上田さんは今やっと気を取り直し、追悼CDの制作と三十年間の資料の整理に取りかかる。
最後の音楽会
「『凪の座』は平和を象徴するネーミング。三人で考えた。古い話は、はあ、忘れますいね」
凪の海もあれば、荒ぶる海もある。追悼CDは四月十日、光市民ホールで発表する。それが「凪の座」のラストコンサートになる。
2004.2.22
写真・田中慎二、文・佐田尾信作