中国新聞社
遺族の悲しみは消えず 広島市東区の倉野さん '10/8/7

 5人きょうだいの姉3人を原爆で失って65年。広島市東区の倉野尚吾さん(74)は6日、初めて平和記念式典に参列した。大阪府の遺族代表に選ばれた妹の中道紀子さん(70)=大阪市=に寄り添い、「安らかに眠って」と祈りを込めた。

 ▽失った姉3人に祈り 記念式典に初参列

 倉野さんは、中道さんと一緒に遺族代表の席で式典を見守った。「あの日」まで笑顔の絶えなかった中山村(現東区)での祖母、両親との8人家族の暮らしが、よみがえった。

 20歳の長女悦子さんは、県産業奨励館(現原爆ドーム)の2階で事務員をしていた。遺骨は特定できなかった。次女妙子さんは16歳。学徒動員先の横川町付近(現西区)の針工場で犠牲になった。

 12歳だった三女瑞子さんは、学徒動員で鶴見町(現中区)へ。顔が腫れあがって真っ黒になり、腕の皮膚が垂れ下がった姿で帰宅した。「お母さん」の声でやっと姉だと分かった。「勉強しんさいよ」。そう言い残して3日後、亡くなった。

 倉野さんは毎年8月6日、妻と早朝に原爆ドームやゆかりの慰霊碑を巡ってきた。「式典はにぎやかなイメージがあるから」と距離を置き、姉3人を静かにしのんできた。

 中道さんも式典は初参列だった。「式典の厳かな雰囲気に思いが高まり、あらためて姉たちをしのぶことができた」と中道さん。倉野さんも「同じような境遇の人と一緒に参列し、祈りが通じる気がした」。平和記念公園を後にしながら、そう感じた。(新田葉子)

 ▽揮毫に浮かぶ亡き夫 愛知の小長谷さん、石碑に初対面

 愛知県遺族代表の小長谷佐喜子さん(82)は6日、広島市中区鶴見町の平和大通りにある「被爆者の森」を訪ね、亡き夫睦夫さんが揮毫(きごう)した石碑と初対面した。

 1990年に完成した森には、47都道府県の被団協から寄せられた樹木が茂る。「ふたたび被爆者をつくらないとの願いを県木に託してつくられた―」。睦夫さんの手による文字が刻む。揮毫の経緯を示す資料は残っていないが、「つらい記憶を胸に押し込め、無心で書いたのでしょう」。

 陸軍にいた睦夫さんは広島城(中区)近くで被爆。左半身に大やけどを負った。出身の静岡県に戻り、小中学校の教員を務めた。「原爆のことは話さなかった」という。睦夫さんは退職を機に一転、被爆体験を語り始め、平和活動に取り組む。米国でも体験を語った。約10年前に体調を崩し、昨年1月、83歳で亡くなった。

 「体力が限られているのを自分で分かっていたのかもしれない。実直なお父さんらしい」。今は長女のいる愛知県一宮市で暮らす佐喜子さん。ペンダントに入れた睦夫さんの写真を見つめた。(岡本圭紀)

【写真説明】<上>式典後、原爆ドームの前で姉の思い出を語る倉野さん
<下>睦夫さんが揮毫した石碑を見つめる小長谷さん



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