中国新聞社
2011ヒロシマ
'11/7/26
碑は語る<2> 材木町跡碑<動画あり>


 ▽失われた暮らし 伝える

 平和記念公園(広島市中区)の芝生広場東の木立に、ひっそりと立つ高さ約70センチの自然石。爆心地から約400メートル。「材木町跡」と刻むその文字が、原子爆弾さく裂の間際まであった暮らしの証しだ。

 軒を連ねる食料品店や茶店、石材店、トンボの飛ぶ池…。当時、中島国民学校6年で疎開していた理容店経営木曽真隆さん(77)=南区=は「活気ある町だった」と振り返る。

 中国新聞社が2000年に調べたところ、1945年8月6日の材木町の居住者で確認できたのは154世帯474人。その日のうちに330人が亡くなったとみられる。

 戦後の公園建設に伴い、生き延びた住民も移転を余儀なくされた。碑は57年、旧住民が犠牲者の冥福を祈り、故郷に思いをはせて建てたという。

 灰じんに帰した広島は今、津波や原発事故で生活を奪われた東北の地と重なる。「誰にも同じ思いをしてほしくない」と木曽さん。風雨に耐えた樹木のように傾く碑。家族の記憶を静かに伝える。(写真・宮原滋、文・馬上稔子)

 動画はこちら

【写真説明】平和記念公園内の通路脇に立つ材木町跡碑。壊滅した町への思いが消えることはない



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