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 西谷 文和(中)  カンボジアに私の原点


高校の修学旅行で友人たちと。左端が筆者(1997年夏、長野県の志賀高原)

にしたに・ふみかず

1960年生まれ。85年から吹田市役所(大阪)に勤務。趣味として一人で旅したイラクで、劣化ウラン弾の影響と思われるがんの子どもたちに出会い、日本から支援する「イラクの子どもを救う会」を2003年12月に設立。04年末に市役所を退職し、戦場ジャーナリストに。人道支援の非政府組織(NGO)と、ジャーナリストとして戦争犯罪を告発する活動を続けている。06年度「平和協同ジャーナリスト基金賞」を受賞。吹田市在住。

中村梧郎写真集「この目で見たカンボジア」を本屋で立ち読みしたのは、高校3年の冬、目前に迫った「共通1次試験」の模試を受けた帰りだったと思います。骸骨が並ぶ畑、用水路を造っているのか兵士の監視のもとに延々と続く労働者の列、そしてポル・ポトの肖像画…。写真集は私を圧倒しました。

1978年末、首都プノンペンが陥落し、ポル・ポト派の大虐殺事件が明らかになりました。ポト派が虐殺した人々の数は、100万とも200万ともいわれています。


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それまで私は「虐殺事件はナチスで終わり」と思っていました。歴史の教科書でしかあり得ないと考えていたことが、実際にカンボジアで、それもたった今まで起きていたことに、衝撃を受けたのです。なぜポル・ポトという人はこんなにもたくさんの人を殺すことができたのか。なぜ私はこんな大事件を知らずに過ごしてきたのだろう。

受験に勝ち抜くために丸暗記してきた歴史ではなく、今起きていることの真相を学びたいと思いました。

大学生時代は格安航空券などなく、ベトナムやカンボジアは高根の花。金をためて行くぞ! いや、やっぱり怖いな…そんな葛藤の中、「新聞社に入れば、会社の金で世界を回れる」と考え受験しますが、あえなく不合格。仕方なく地方公務員になりました。

これが正解だったのかもしれません。カンボジアへの旅費が工面できたし、当時の公務員は、休暇も取りやすかったのです。93年、有給休暇で念願のカンボジアへ旅立ちました。

プノンペン空港に降り立った私は、一歩も前に進むことができませんでした。「金をくれ」「食い物を恵んでくれ」。片足の男たちが、私の服やカメラをつかんで放しません。地雷被害者でした。恥ずかしいことに、それまで地雷というものを知りませんでした。私はクメール語をしゃべれない。彼らは日本語がわからない。しかも、私の学んだ「受験英語」は、実際の会話にほとんど役に立たなかったのです。

「いつ、どこで地雷を踏んだの?」「家族は?」「ポル・ポトに何人殺された?」。身ぶり手ぶりで質問しました。帰国後、英語リスニングの訓練を始めました。私は「世界一人旅」にはまり、アフリカ、ボスニア、コソボなど紛争地を回るようになりました。そして98年と2000年にカンボジアを再訪し、あの時ちゃんと取材できなかった地雷被害者たちに密着取材することができたのです。

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やがて米中枢同時テロが起こり、世界は対テロ戦争に突入しました。アフガニスタンとイラクでは合わせて数十万とも100万人以上ともいわれる罪なき人々が殺されてしまいました。休暇を取って訪問するには、もう休暇が足らない。公務員を退職し、フリージャーナリストになりました。

私がこの仕事をしようと思った原点は、カンボジアでの体験です。いきなり新聞記者にならずに良かった、とも思います。もし私の成績が優秀で新聞社に採用されていたら、現場へ行くことができなかったかもしれません。ジャーナリストに憧れていた私が、今、まさにこの仕事ができるのは、「回り道をしても、諦めなかった」からではないでしょうか。

 
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