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 西谷 文和(下)  疑問解くため現場踏む


少年時代を過ごした京都市西京区の団地の前で。叔母、妹と

にしたに・ふみかず

1960年生まれ。85年から吹田市役所(大阪)に勤務。趣味として一人で旅したイラクで、劣化ウラン弾の影響と思われるがんの子どもたちに出会い、日本から支援する「イラクの子どもを救う会」を2003年12月に設立。04年末に市役所を退職し、戦場ジャーナリストに。人道支援の非政府組織(NGO)と、ジャーナリストとして戦争犯罪を告発する活動を続けている。06年度「平和協同ジャーナリスト基金賞」を受賞。吹田市在住。

私は1960年、京都市下京区で生まれました。当時の京都は市内中心部にも田んぼや畑があり、大通りに車は少なく、市電がのんびりと走っていました。残念なことに京都市電は78年に廃止され、今は乗ることができません。広島に来るたび、できるだけ交通手段を路面電車にして、車窓からの風景を楽しんでいます。


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小学2年の時に京都市の郊外、桂離宮で有名な西京区桂地区に引っ越しました。阪急京都線の桂駅は、今では特急が停車する「大都会」になっていますが、当時は、駅西口から5分も歩くと見渡す限りの田んぼが広がっていました。田んぼを突き抜けてさらに西に30分ほど行くと、なだらかな丘陵を切り開いて5階建ての真新しい団地が13棟立っています。京都市営住宅樫原団地。この団地が私のふるさとです。

竹やぶと柿畑に囲まれた自然あふれる2DK。水洗便所に感動し、生ごみは「ダスターシュート」といって階段の踊り場に備え付けの穴から直接放り落とす画期的な「手抜き」方式でした。(ただ、下で作業する人が危険なので、すぐに廃止になりました)

しばらくして団地の周囲の山々が開発されていきました。うっそうとした竹やぶが切り開かれ、ため池が埋め立てられました。春になると「はげ山」になった竹やぶからタケノコが次々と顔を出すので、同級生とスコップでタケノコを掘って食べるのが楽しみでした。

小学校高学年になると近所の小川での釣りにはまりました。透き通った水がさらさらと流れ大きな岩で深いよどみができていて、そこに釣り糸を垂れると面白いようにウグイやフナが釣れるのです。「カルビーのかっぱえびせん」が発売された直後だったので、えびせんを食べた後の袋に魚をいっぱい詰めて帰り、母に調理してもらいました。

このころから、自転車でどこへでも出かける子になりました。京都は盆地なので愛宕山や比叡山に囲まれています。「あの山の向こう側は?」という興味から、自転車で登れるところまで登って、けもの道のようなところは自転車を担いで峠を越えていくのです。

中学2年の12月、京都北山の峠を越えて山の裏側に回ると、一面の銀世界。膝までの雪をかき分けながら、その昔、夏になると天皇に氷を供出したといわれる「氷室」までたどり着けたのもいい思い出です。


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今にして思うのは「山の向こう側がどうなっているのか見てみたい」という好奇心が非常に大事だったということです。

イラクのフセイン像が倒された広場に行ってみたい。ビンラディンが殺された家はどこにあるのだろうか? 原発事故で避難せざるをえない人々は、今、どんな苦労をされているのだろうか?

最近では5月16日から31日までリビアに入国して、カダフィ軍の戦争犯罪や北大西洋条約機構(NATO)軍の空爆の実態、子どもたちの戦争被害について取材してきました。

こうした「疑問」を解き明かしていくには、「現地へ行く」ことが必要です。私はできるだけ毎年8月6日に、広島市中区の平和記念公園の被爆アオギリを見に行くようにしています。原爆の恐ろしさを忘れないようにするためには、現場を踏むことが一番と思うからです。

 
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