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原爆・平和報道の現場
 〜ヒロシマ伝える意義知った〜

毎夏、テレビや新聞各社は原子爆弾の被害、平和問題などについて特集をしています。人類史上初めて核兵器の被害にあったヒロシマは62年にわたり、国内外に発信され続けてきました。その積み重ねはこの地で活躍するジャーナリストの歴史でもあります。

今回、ジュニアライターはNHK広島放送局と中国新聞社を取材しました。原爆によりそれぞれ86人、113人の社員が亡くなっています。壊滅的な被害を受けた両者は、それゆえに使命感を持ってその時々を記録してきました。

また「先輩」にあたる記者を取材し、被爆者たちとともに悩み、痛みを分かち合う姿勢を見ました。そして伝えることの意義の大きさをあらためて感じました。

 
 取材に同行 インタビュー
 

被爆者の人生を記録 −NHKディレクター・松丸慶太さん−


NHK広島放送局の特集番組「被爆者 空白の10年」(仮題、8月6日放送予定)の取材現場を訪れ、松丸慶太ディレクター(34)に狙いや番組への思いを聞きました。

坪井理事長の自宅で話を聞く松丸ディレクター

空白の10年」とは、被爆者援護が不十分で、偏見に特に苦しんだ原爆投下後10年間のことです。「空白」がなぜできたのか、資料や証言で探っていきます。私たちが訪問したのはこの「空白」について被爆者アンケートをした広島県被団協の坪井直理事長(82)の自宅です。カメラが回り、張りつめた空気のなか、熱心に坪井さんの話を聞く松丸さんの姿が印象的でした。

松丸さんが原爆、平和関連の番組を担当するのは初めて。千葉県出身で、原爆について詳しく知らず「自分にできるだろうか」という不安があったそうです。しかし、悩む前に行動しようと、昨年10月の取材開始から、200人以上の被爆者に会いました。

松丸さんに、結婚差別されたことを初めて明かした人がいました。突然服を脱ぎ、知られたくないはずのケロイドをカメラの前で見せてくれた被爆者もいました。「心を開いてくれたことがうれしかった。きちんと伝えなければいけないという意識がより高まった」と言います。

「一人の人間としての被爆者を浮き彫りにできるよう、いろんな人生や思いを記録していきたい」と考えているそうです。(中2・坂田悠綺)

 

松丸ディレクターと、森田記者の取材風景です。

 

                                  
 

想像力養い痛み共有 −中国新聞記者・森田裕美さん−


中国新聞報道部の森田裕美記者(33)にインタビューしました。これまで被爆者援護や世界の核兵器問題の記事を書き、今年は「放影研60年」などの連載をしています。

在外被爆者の支援団体代表を取材する森田記者

― 印象に残る取材は。

被爆者の胸の内に触れる時です。例えば、原爆で妹を奪われた人は、その葬儀で「なんでお前は生きているのか」と親せきに責められた経験を打ち明けてくれました。わざと明るく話す姿が逆に切なかった。この人のように生き残ったことをいまだに罪のように感じて苦しんでいる被爆者は多いです。思い出したくもない体験を「二度と繰り返してはならない」と、若い世代に伝えてくれるのだから一人でも多くの人に発信しなくてはと思うようになりました。

― つらいことはありますか。

親しい被爆者が亡くなって、訃報(ふほう)記事を書かなければいけないときですね。その悲しみをバネに、ますます伝えなければと自分を奮い立たせています。

― ヒロシマの記者としてやりがいは。

核実験があったマーシャル諸島を訪ねた時、ヒバクシャたちは見ず知らずの私に思いのたけを語ってくれました。同じ苦しみを味わった広島の人なら分かってくれると思ったからだと後で聞きました。期待を感じました。ほかにも自分の書いた記事で人と人がつながって被爆体験継承の動きが出たときはうれしいですね。

― 一番大切にしていることは何ですか。

つらい経験を聞かせてもらうのだから、しっかり事前に勉強し謙虚に臨むようにしています。言葉の奥にある思いもくみ取るように努力します。

― 若い世代はどう平和に貢献できますか。

まずは自分の問題として考えること。相手の痛みを理解する想像力を養うことだと思います。そうして考えたことを英語やインターネットなど自分の興味があることを通じて発信するのも一つの方法ではないでしょうか。(高3・中重彩、中2・坂田悠綺)

 

市民と共に原爆問う −NHK広島放送局・金子与志一局長−


NHK広島放送局は、原爆や平和問題を扱った番組を多く作っています。金子与志一局長(55)=写真左=に、これまでの歩みを聞きました。

「核・平和プロジェクト」という特別班があり、毎年秋から翌年のテーマについて7、8人が話し合っています。現在の平和記念公園の場所にあった街並みを地図で復元したり、「あの日」の光景を被爆者に描いてもらったりするなど、市民と一緒に原爆について考えることを大切にしてきました。

広島勤務は2度目。初めてだった1995年には、米国で計画されていた原爆展が中止になりました。若手をすぐに派遣。原爆を正当化する米国と日本のギャップを紹介しました。ヒロシマ報道について「被爆者の思いを時間をかけて聞くことが大切。想像力と共感力が必要」と力強く話していました。

来年年は開局80年にあたります。被爆直後の広島で採火された福岡県星野村の「平和の火」と、広島市の平和記念公園の「平和の灯(ともしび)」を合わせた碑「ヒロシマの火 平和への灯」を放送局前に建て、8月1日に除幕します。この特集番組も予定しています。(中1・今野麗花)

 

海外の核問題も取材 −中国新聞編集局・兼重収局長−


中国新聞は被爆地に本社を置く新聞社の使命として、積極的に継続的にヒロシマ報道に取り組んできました。兼重収編集局長(58)=写真右=は「二度と核兵器の被害者を出さないことを報道の原点にしてきた」と話します。兼重局長自身も原爆でお姉さんを亡くしています。広島の新聞だからこそ、被爆者の思いを正確に伝えることを重視してきました。

また中国新聞は日本だけでなく、湾岸戦争で使われた劣化ウラン弾の放射線被害を世界に先駆けて報道するなど、海外の核問題についても取材テーマにしています。

しかし、久間章生前防衛相が原爆投下を「しょうがない」と発言。核兵器廃絶の動きが進まない現実があります。兼重局長は「世界中のヒバクシャとも連携して、原爆がいかに罪悪であるかを訴え続けないといけない」と言います。国を超えて、より多くの人に核兵器廃絶のメッセージを発信する必要があるのです。

被爆者が高齢化する中で、生の声や記憶を後世にきちんと残す作業が大きなテーマになります。その上で「若い世代が新たに平和に興味を持つきっかけとなる場を紙面やネットでつくっていきたい」と力を込めました。(高1・西田成)

 

現代の視点で問う原爆 「ヒロシマ新聞」発行 −中国新聞労働組合−

原子爆弾が投下され、社員113人が亡くなるなどの被害を受けた中国新聞は1945年8月7日付の新聞を発行できませんでした。その幻の新聞を「ヒロシマ新聞」=写真=として、被爆50年の1995年に、中国新聞労働組合が発行しています。

現在の新聞と同じサイズで8ページ。原爆投下後の広島市内の被害状況などを詳しく伝えています。

製作時の書記長だった田中伸武記者(49)=現浜田支局長=は「原爆について自分たちも勉強し直す目的もあった」と言います。記事は現代の視点で書くことを心掛け、戦争中のような敵、味方の区別をやめたほか、当時は取り上げられなかったであろう、強制連行された外国人の被爆についても触れています。

初版は3万部でしたが、現在でも増刷を続け、これまでに17万部発行しています。300通を超える反響を載せた冊子「ヒロシマへの手紙」もまとめています。

田中記者は「ヒロシマを忘れたときに核戦争は起きる。このメッセージを英語版でも発信したい」と考えているそうです。(高3・菅近隆)

 

                                  
 

ロケの同行などで感じたのはジャーナリストの皆さんが「被爆者」というくくりではなく、一人の人間として向き合う姿勢を持っていたことです。松丸さんの「原爆だけでなく、その人の人生全体を見ないと、実像は分からない」という言葉に報道の責任感を感じました。

私たち若い世代は何をするべきかを聞いたところ今回取材した全員から「被爆者の話を聞くこと」という答えが返ってきました。「受け身にならず、疑問があったら被爆者にどんどん質問して」という意見も参考になりました。そうすることで、平和について考え、意見を持つことができるのだと思います。

ジュニアライターの仕事については「記事を書くときに自分の目線を大切に」というアドバイスをもらいました。「どうすればいいのか難しい」という声も出ましたが、「自分なりのモットーを持つ」「取材相手と一緒に悩みながら考えたい」と感じた人もいました。(高3・中重彩)

 

                                  
 

なるほどキーワード

  • 空白の10年

    原爆投下から約10年間、被爆者の組織化や国などによる援護が不十分だったため、広島県被団協(坪井直理事長)がこう呼んでいる。県被団協が昨年行った被爆者アンケートでは、多くの人が病気の不安を抱え、偏見に悩んだ実態が明らかになった。

  • 劣化ウラン弾

    核燃料の天然ウランを濃縮したときにできる「劣化ウラン」を使った砲弾。鉄や鉛より比重が重く、戦車も貫通する。1991年の湾岸戦争で初めて使われた。

  • 平和の火

    福岡県星野村の山本達雄さん(2004年死去)が叔父の形見として、広島市中区の書店地下倉庫にあった火をカイロに入れて持ち帰ったのが始まり。1968年に同村が「平和の塔」を建立して火を引き継いだ。毎年8月6日には同村が平和式典を開いている。

  • 平和の灯

    広島市中区の平和記念公園にある。1964年8月、全国からの寄付で作られた。同公園を設計した故丹下健三氏のデザイン。核兵器廃絶の日まで燃やし続ける。