第1部 シンデレラ・キッズB

2006.03.23
 ☆選択の時☆    「米に残る」 はっきり主張 
 
15歳のころ、自宅近くでカメラにポーズをとるミサカ(本人提供)

  頭が良くて人気者。髪もきっちり七、三に分けた優等生が、はっきりと自己主張したことがある。日本へ行くか、米国へとどまるかの選択を迫られた時だった。

★母の問い掛け

 一九三九(昭和十四)年三月、父房一が死亡した。母タツヨは十五歳の長男ワット(本名ワタル)・ミサカ(82)に問い掛けた。「岩子島(現尾道市向島町岩子島)に帰ろう。島へ戻れば、自分の兄弟たちがいる。何とかなる」。息子は首を縦に振らなかった。「弟は連れて行ってもいい。自分は残る」。遊び仲間との別れがつらかった。何より米国ユタ州で生まれ育った少年は日本が異国としか思えなかった。

 弟のタツミは十歳、その下のオサムは七歳。父が残したのは、育ち盛りの三人兄弟と小さな理髪店。長男の熱意に動かされたのか、母は店を継いだ。

 ハサミの握り方も、バリカンの使い方も知らない。近所の理容師に一から技術を習い、免許を取った。平日は午前八時から午後五時、土曜日は午後六時まで営業。日本人客が多く、たいてい時間を延長した。従業員を雇う余裕はなかった。オグデンハイスクール(高校)の同級生はみんな自転車通学だったが、ミサカは三キロの道のりを歩いて通った。

 料理や掃除、弟の世話は、長男の仕事になった。「自分は長男だから、家の責任も感じていた」。弟の友人レイモンド・ウノ(75)は「良い見本のお兄さんであることで、お父さんの役割を果たしていたのではないかな」と言う。

★「勉強が大切」

 ミサカは今でも、繰り返す。「バスケットボールは生活の中で、一番ではなかった。勉強が一番大切だった」。それが母の望みだと思っているからだ。日系人が米国社会で生き抜くため、「学位が必要だった」と二世たちは口をそろえる。

 大学は「お金をかけたくない。家から通える学校がよかった」と、オグデンのウイバーカレッジに進み、三年からユタ大へ編入した。大学のプール監視などのアルバイトで学費を稼ぎながら、バスケットと勉強を両立させた。

 幼なじみのフサコ・シミズ(82)は「日本人だけでなく、白人からも人気があった」と覚えている。物静かで我慢強く、争いごとを嫌った。長男であり、兄であり、父親代わり。母を支え、家族を守る意識が、どこか、大人びた雰囲気を醸し出していた。<敬称略>



8月19〜24日 世界バスケ1次リーグ広島開催