第2部 日米のはざまでA

2006.04.19
 ☆軍隊生活☆    日本語学ぶ合間も球技 
 
米陸軍語学学校時代の基地で、ミサカと仲間たち(本人提供)

 「ワタシノ ニホンゴハ スコシデスヨ…」。ワット(本名ワタル)・ミサカ(82)は流ちょうではないものの、日本語が話せる。母タツヨが一九五四(昭和二十九)年に亡くなると、口にする機会はなくなった。「ほとんど忘れてしまったよ」と恥ずかしがるが、六十年前に覚えた言葉はまだ残っている。

 米陸軍に招集された四四年夏から約一年間、ミネソタ州ミネアポリスの軍語学学校で日本語の訓練を受けた。部隊は全員、日系二世。日本の情報を収集、解読するために日常会話だけでなく、専門用語なども学んだ。「侵攻するための訓練だと聞かされた」

 訓練を続ける生活で最大の楽しみは、スポーツレクリエーションだった。米国で生まれ育った二世たちは、タッチ・フットボールやバスケットボールに歓声を上げた。師団ごとにチームをつくり、小隊対抗の大会もあった。近くの基地と試合もした。

★名前が広まる

 ある時、基地主催のタッチ・フットボール大会が開かれた。ミサカは少し興奮気味に思い出す。「自分はクオーターバックでキャプテン。体格の小さい二世が、白人チームを相手に勝ったんだ」。攻撃の拠点として、パスや周りの選手を動かす司令塔でありながら、三本のタッチダウンも決めた。スポーツ万能だったミサカの名前はあっという間に基地に広まった。

 幼なじみのジョージ・シミズ(85)も同じ基地に所属していた。「ワット・ミサカというグッドプレーヤーがいる、と評判になったよ。フットボールだけでなく、もちろんバスケットでもね」。毎週末に開かれるスポーツ大会で、どんな競技であってもミサカはいつも注目を集めた。

 四五年八月十五日、終戦を迎える。ほっとしたのもつかの間、夏の終わりには、フィリピン・マニラへ移動した。太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁の海岸で短い休日を過ごし、赴任地へ着いた。競馬場跡にバラックを建て、床に板を張った簡易宿泊所で、しばらく過ごした。

★通訳で東京へ

 「日本に行かなくてすむと思ったんだけど」という、かすかな願いはかなわなかった。進駐軍通訳の命令が下った。四五年十一月、焼け野原の東京に降り立った。米軍横田基地へ配属され、翻訳や通訳業務を担当した。それからの半年間、ミサカは両親が生まれた国、日本で初めて暮らすことになる。<敬称略>



8月19〜24日 世界バスケ1次リーグ広島開催