第2部 日米のはざまでB

2006.04.20
 ☆廃虚の広島へ☆    市民の悲しみ聞き取る 
 
終戦直後、米軍戦略爆撃調査団の質問所が置かれた旧広島東署の玄関に立つミサカ(本人提供)

 ワット(本名ワタル)・ミサカ(82)は初めて、両親が生まれた日本で過ごしていた。一九四五(昭和二十)年秋から、米軍の語学兵として東京の横田基地へ配属され、米国の戦略爆撃調査団の通訳に就いた。爆撃が一般市民へ与える精神的な影響を調べる「戦意調査部」に所属した。

 十一月、ミサカのチームが最初に向かった先は、三カ月前に人類初の原子爆弾が投下された広島市だった。両親の故郷、広島県岩子島村(現尾道市向島町岩子島)が、すぐそこにあった。

★続く焼け野原

 「悲しかった」。被爆都市広島での仕事を思い出し、ミサカはぽつりとつぶやいた。どこまでも焼け野原の平地が続き、遠いはずの山がすぐ近くに見えたという。「墓石や木の株、コンクリートの基礎以外は吹き飛んでいた。一発の爆弾で、こんなになってしまうのは大変悲しい」。街は廃虚のようだった。

 ミサカたちは夕方から翌日の早朝まで、市内の中心部に入ることは禁じられていた。放射能の影響が懸念されたからだ。

 無作為に抽出した一般市民を広島市下柳町(現中区銀山町)にあった広島東警察署に設けた質問所へ呼び、インタビューを重ねた。生活状態や戦時中の対米意識などを質問した。日本人に話しかけ、言葉を理解できるのは語学兵だけである。ミサカはローマ字で書かれた黄ばんだ質問集を今も、捨てられないでいる。

 広島東署の室内の鉄のドアは、ぐにゃりと曲がっていた。本題に入る前、雑談をするのが通例であった。強烈な思い出が残っている。若い女性と向き合った時、抱いていた子どもが泣きやまなかった。女性がなだめても、激しく泣き続けた。子どもは背中にひどいやけどを負っていた。

★叔父らは無事

 広島市向洋大原町(現南区)に、母タツヨの弟家族が暮らしていることは、来日前から知っていた。「叔父さんの家も家族も無事だった。体に負った傷の度合いは違っても、みんなが心に大変な悲しみを感じていた」。広島にゆかりのあるミサカの口調は重かった。原爆に関して多くを語ることはなかった。米軍人として訪れただけに複雑な感情に揺れた。

 広島の後は山口へ。十二月、二十二歳の誕生日は萩市で迎えた。宴会で初めて日本酒を口にした。琴の演奏でもてなされた。

 現在、米ユタ州ソルトレークシティー近くの自宅には、日本庭園を思わせる池がある。食事も日本食を好み、はしも器用に扱う。ただ、ミサカの脳裏に真っ先に浮かぶ日本の風景は、東京と広島で目にした焼け野原だった。<敬称略>



8月19〜24日 世界バスケ1次リーグ広島開催