第3部 栄光と挫折@

2006.05.16
 ☆ドラフト☆    プロから誘い 入団即決 
 
米大学バスケットボール界の人気選手だったミサカ(ユタ大提供)

 「1947 Wat Misaka…Utah」。米プロバスケットボールNBAの伝統チーム、ニューヨーク・ニックスの歴代ドラフト入団選手の一行目に、その名は記されている。新人選手獲得のため、初めてドラフトが実施された一九四七年、両親が広島県出身で米ユタ州オグデン生まれの日系二世、ワット(本名ワタル)・ミサカ(82)はニックスからただ一人、指名を受けてプロ入りした。

★社長が直々に

 バスケットがオフシーズンの夏、ミサカはテニスなどほかのスポーツも楽しみながら、大学生活を過ごしていた。そこへ、ユタ大バスケットチームのバダル・ピーターソン監督を通じて、オファーが舞い込んだ。「プロ選手にならないか」

 七月下旬、ニックスのネッド・アイリッシュ社長が飛行機でユタ州ソルトレークシティーへ飛んできた。「飛行機でわざわざ来てくれただけでうれしかった。オファーをもらってすぐに入団を決めたよ」。しかも、交渉の場となったユタホテルはユタ州で最も格式が高い。初めて入った高級ホテルの一室で契約書にサインした。

 契約金は三千ドルだった。大学を卒業したエンジニアの年収と同じ程度だったという。リーグの開幕は十一月。「プロで通用しなければ、大学に戻って勉強を続ければいい」と、ちゅうちょしなかった。

★ユタ州の誇り

 プロリーグ(当時はBAA)は四六年に創設されたばかりだった。アメリカンフットボールや大学バスケットに比べて注目度は低く、ドラフトも派手な演出はなかった。当時は、各チームが優先的に選手を獲得できる地域を持つシステムで、ユタ州はニックスが担当していた。

 ユタ大は四四年のNCAA(全米大学選手権)と四七年のNIT(全米招待大学選手権)で優勝した。その中心選手はミサカだった。「アリーナに観客を呼べる看板選手はいないものか」と探していたアイリッシュ社長にとって、ミサカの実力と人気は魅力的だった。

 故郷は沸いた。幼なじみのフサコ・シミズ(82)は「ワットの入団は日系人にとって、大きな出来事。みんなが喜んだ。すごく誇りに思った」と興奮した。トゥーバー・オクダ(77)も「新聞で見た。ユタからプロに選ばれたこと自体がニュース」。日系人だけでなく、ユタ州の人たちは自分のことのように自慢に思った。

 ミサカは高校時代から自らの実力で道を切り開き、バスケット界での評価を高めてきた。十月、意気揚々とニューヨークへ乗り込んだ。<敬称略>



8月19〜24日 世界バスケ1次リーグ広島開催