第3部 栄光と挫折A

2006.05.17
 ☆プロ生活☆    期待と注目 一身に受け 
 
新入団選手のミサカを紹介するニックスの広報誌

 バスケットボールのコートとは名ばかりで、公園内にアスファルト舗装した簡易コートが一面。雨が降ればプレーはできない。一九四七年十月、ワット(本名ワタル)・ミサカ(82)のプロ選手としての生活は、米ニューヨーク州のリゾート地、ベアマウンテンのそんな練習環境の中で始まった。

 十一月の開幕に備え、米プロバスケットボールBAA(現NBA)のニューヨーク・ニッカーボッカーズ(愛称ニックス)はキャンプを張っていた。練習は午前と午後に二時間ずつ。屋外練習場で走る十五人の選手を、就任したばかりのジョー・ラプチック監督が厳しい表情で見守った。

★あふれる自信

 ベンチ入りメンバーは十二人。ユタ大で全米大学選手権(NCAA)と全米招待大学選手権(NIT)と二度の優勝を経験していたミサカは、実績でも知名度でも抜きんでていた。

 身長五フィート七インチ(約一七〇センチ)のルーキーは自信に満ちあふれていた。「チームの中で、大学チャンピオンになった選手は自分一人だけだった。大学時代に戦って印象に残っているような選手もいなかったしね」。ニューヨーク州ウエストポイントでの二度目のキャンプでも、ミサカは張り切った。

 ニックスが発行する広報誌「Knick Knacks」第一号のトップ記事では、チームで最高身長六フィート七インチ(二〇四センチ)のリー・ノレックやラプチック監督とともに紹介された。ニューヨーク・タイムズ紙も開幕前、注目される選手として、新人ミサカを取り上げた。期待は大きかった。

 ニックスはBAAが始まった四六年シーズンは東地区3位。プレーオフの準決勝で敗れた。二季目の四七年シーズンに、ラプチック監督が就任。セントジョーンズ大を四度、全米招待大学選手権優勝に導くなどの手腕を買われた。当時四十七歳。ラプチック監督はその後、五六年まで指揮を執り、ニックスの基盤を築いた。

★出場時間減る

 開幕までの間、ニューヨークの地元大学などとの練習試合が組まれた。だが、ミサカの出場時間は徐々に減っていった。「どんなプレーが要求されているか、分からなかった」。豊富な運動量と読みの鋭い守りが持ち味だけに、短いプレータイムではチームにとけ込むのは難しかった。

 ラプチック監督は選手に対して、自ら話しかけようとしないタイプの指揮官だったのだろう。「一度も会話をしたことがない」。ミサカの心にわだかまりが募っていく。<敬称略>



8月19〜24日 世界バスケ1次リーグ広島開催