第3部 栄光と挫折B

2006.05.18
 ☆当落線上☆    開幕1ヵ月 無情の解雇
 
ニックスでプレーするミサカ=左端((C)Bettmann/CORBIS)

 ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンは今も昔も、バスケットボールの「聖地」である。一九四七年当時はブロードウエーの劇場が並ぶ地域に近い、四十九丁目に立っていた。アリーナは同年十一月十三日夜、約一万五千人の人いきれに包まれた。

 米プロバスケットボールBAA(現NBA)のニューヨーク・ニッカーボッカーズ(愛称ニックス)は、ワシントン・キャピタルズとのシーズン開幕戦を迎えた。禁煙でなかった上に換気も悪い。薄白く煙った空気の中で試合は始まった。

★物足りぬ会場

 ベンチ入りは十二人。ワット(本名ワタル)・ミサカ(82)も背番号「15」のユニホームを身にまとい、ベンチに座った。アリーナは約二万人を収容できた。「大学の試合に比べて客が少なかったよ」。ユタ大時代に超満員の歓声を浴びながらプレーしていたミサカにとって、少し物足りなかった。

 四七年シーズンのニックスは48試合を戦った。ニューヨークでの試合は半分は六十九丁目にあったレジメント・アーモリーで催された。マディソン・スクエア・ガーデンはアイススケートやボクシング、コンサートなどイベントがめじろ押しだったからだ。

 アーモリーの観客席は約一万人。もともと米軍の集会所で、コンクリートの上に板を張っただけの床は、板の継ぎ目がめくれ上がっていた。「ドリブルが思うところに跳ね上がってこないんだよ」と、ミサカは笑いながら思い出す。

 当時の試合の細かな個人記録はチームにもNBA本部(ニューヨーク)にも残っていない。ニューヨーク・タイムズ紙によると、開幕戦のミサカは途中から登場し、1ゴール(2点)を挙げた。80―65でニックスが勝利した。ロードアイランド州でのプロビデンス・スチームローラーズとの2戦目は5点を記録している。チームは開幕3連勝と波に乗っていた。

★新戦力を検討

 しかし、ミサカはベンチを温める時間が長くなっていた。同じポジション、ポイントガードの選手はミサカを含めて四人いた。ジョー・ラプチック監督は新たに選手を獲得するために、二選手を解雇しようとしていた。ミサカの名前が挙がり始める。

 「ちょっと来てくれないか」。ミサカはニックスのネッド・アイリッシュ社長の部屋に呼ばれた。「十二人の枠に抑えないといけない」。解雇通告だった。開幕してからまだ、一カ月も経っていなかった。<敬称略>



8月19〜24日 世界バスケ1次リーグ広島開催