第3部 栄光と挫折C

2006.05.19
 ☆失意☆    厳しい評価 競技と決別 
 
ユタ大時代から、試合で何度もミサカが主役になった1947年当時のマディソン・スクエア・ガーデン(本人提供)

 「選手を(一定の)枠内に抑えないといけない」。米プロバスケットボールBAA(現NBA)ニューヨーク・ニッカーボッカーズ(愛称ニックス)のネッド・アイリッシュ社長の言葉に、ワット(本名ワタル)・ミサカ(82)は驚いた。

 社長は静かに続けた。「自分の本意ではない。選手を選ぶ全権は監督にあるからしょうがない」。契約から四カ月後の一九四七年十一月二十四日、解雇されたミサカはニューヨークを去った。

★合点いかない

 ベンチ入りできる選手は十二人。「自分はすでに、メンバーに入っていたはずだ。そういう感触をつかんでいたのに…」と、ミサカは六十年近くたった今でも、まだ合点がいかないようだ。

 ユタ大時代から、コートに立つだけでファンを沸かせた人気者。アリーナに客を集めたいアイリッシュ社長ら経営陣の思惑と、ジョー・ラプチック監督の戦術構想が合わなかったのかもしれない。「ミサカは観衆に人気がある。しかし、シュート能力が低い」。ニューヨーク各紙の評価も厳しくなっていた。

 ユタ大時代のチームメートで、四九年にNBAのミネアポリス・レーカーズへ入団したアーニー・フェリン(80)は指摘する。「ニックスには、ワット(ミサカ)のほかに、良いポイントガードが十分いた。ポイントガードが必要なチームに指名されていたら、その後のワットの人生は変わっていただろう」

★「生活がある」

 ミサカはホテルで荷物をまとめ、一人で汽車に乗り込んだ。十一月下旬はちょうど、米国人が家族でパーティーを開いてだんらんを過ごす感謝祭の時季。しかし、ミサカは大学のある米ユタ州ソルトレークシティーにも、故郷のユタ州オグデンにも真っすぐ帰らなかった。米軍時代の友人が住むシカゴで降りて数日間、身を寄せた。

 その後、家族にも友人にも知らせず、そっとソルトレークシティーへ戻った。五二年に結婚し、当時恋人だったケイティー(77)は「がっかりしたそぶりは見せなかった」と言う。しかし、何が起き、いつ帰ってきたのかは聞かなかった。

 ニックスからの契約金三千ドルが銀行口座に振り込まれていた。ミサカはその貯金をユタ大に復学する学費にあて、四八年六月に卒業した。

 ショーバスケットのチームから誘いがあったものの即座に断った。「バスケットでは食べていけない。私には生活がある」。ミサカはバスケットのコートに、二度と立とうとはしなかった。〈敬称略〉



8月19〜24日 世界バスケ1次リーグ広島開催