第3部 栄光と挫折D

2006.05.20
 ☆同胞の星☆    不遇時代に勇気与える 
 
1947年、ユタ大全米優勝への貢献で全米日系人市民協会から表彰され、トロフィーを持つミサカ=中央(本人提供)

 プロ選手としての生活は、わずか一カ月だった。ワット(本名ワタル)・ミサカ(82)は、米プロバスケットBAA(現NBA)ニューヨーク・ニッカーボッカーズ(愛称ニックス)時代の思い出を話したがらない。「たいしたことじゃないよ…」。複雑で消化しきれない思いが、六十年たった今も、心に渦巻いているのだろうか。

 ネッド・アイリッシュ社長にはニックスを解雇された理由を聞かなかった。ジョー・ラプチック監督とは言葉を交わした記憶がない。「どんなプレーを要求されているのか、読めないまま終わった」。速攻型でシュート練習に時間を割く監督だったとだけ、覚えているという。

★多くを語らず

 バスケット選手としては小柄な体格でも、「スピードをつければ、小柄なことがアドバンテージ(有利)になる」という自負だけは持ち続けている。

 日本との戦争が終わったばかりの時期でもあった。短期間での解雇理由に「差別意識があったのではないか」という思いが浮かんだこともあった。しかし、今はかたくなに否定する。「差別を感じたことはなかった」。そして、それ以上は口にしようとしない。

 公式戦で残した「3試合7得点」は、ささやかな成績ながら、後のNBA発展の土台を築いた。身長五フィート七インチ(約一七〇センチ)は一九八七年に、身長五フィート三インチ(約一六〇センチ)のマグジー・ボーグス(ホーネッツなど)が出てくるまで、NBA史上、最も身長が低い選手として、記録されていた。

★地位を高める

 全米日系市民協会(JACL)の会長も務め、米ユタ州で日系人初の裁判官になったレイモンド・ウノ(75)は力説する。「日系人が戦中、戦後のあの時代を思い出す時、必ずワット(ミサカ)の話へ行き着くんだ。米国全体で日系人の地位を向上させるのに貢献した。特別な人なんだよ」

 日本との戦争中も戦争が終わっても、さまざまな悔しさを味わった。そんな時代に、ミサカは全米大学チャンピオンに二度なり、プロバスケットの世界へ身を投じた。全米に輝きを放つ「二世の星」に、日系人たちは勇気づけられたのだろう。

 二〇〇二年、日系米国人スポーツ選手の先駆者として、九二年アルベールビル冬季五輪のフィギュアスケート金メダリストのクリスティー・ヤマグチらとともに、北部カリフォルニア日系文化地域センターから表彰された。ミサカの功績を紹介するパンフレットには、こう記されている。「ワット・ミサカは、バスケットボールの『イチバン』だった」<敬称略>=第三部おわり



8月19〜24日 世界バスケ1次リーグ広島開催