第4部 パイオニアB

2006.06.09
 ☆沈黙☆    家族も知らぬプロ生活 
 
ユタ大時代のミサカ(中央)が表紙を飾った、1944―45年版米国バスケットボールオフィシャルブック

 「お父さんはバスケットボールの選手だったの?」と、ワット(本名ワタル)・ミサカ(82)の長女ナンシー(42)が子どものころ、驚きながら家に帰ってきた。小学校で先生に「ひょっとして、お父さんはあのミサカか」と聞かれたのだという。妻ケイティー(77)は「私もバスケットのワットについて、何も知らないわ」と答えるしかなかった。

 ミサカは米ユタ州の有名人である。ユタ大のバスケットチームの一員として、二度の全米優勝。白人以外で初めてのNBA(当時BAA)選手としてニューヨーク・ニッカーボッカーズ(愛称ニックス)でプレーした。

★現役復帰せず

 一九四七年十一月に3試合でニックスを解雇されてからは、バスケット界から身を引いた。地元日系人チームのコーチを務めた時期もあるが、選手に復帰することはなかった。ニューヨークでのプロ生活に関して、家族にも伝えていない。ニックス時代の思い出の品は、自分が紹介された広報誌ただ一枚である。

 半世紀を経て、NBAは米国を代表するプロスポーツに発展を遂げた。中国人の姚明(ヤオミン)(25)や韓国人の河昇鎮(ハズンシン)(20)らアジア人がプレーし、日本人の田臥勇太(25)もコートに立った。「NBA最初の白人以外の選手。しかも日系人…」。ミサカの存在はが然、注目を集めるようになった。米国内だけでなく、日本からもメディアの取材依頼が舞い込む。

 野球の大リーグ初の黒人選手ジャッキー・ロビンソンと同世代。米プロスポーツのパイオニアとして、並び称されたこともある。「BAAは設立したばかりだったし、マイノリティーが入れない決まりはなかった。大リーグとは違う。自分がそれほど、すごいことをしたとは思わない」。それ以上は口をつぐむ。

★急な解雇なぜ

 学生時代、ユタ大ではヒーローだった。なのに、プロチームのニックスではあっさり解雇された。「日系人だからか」「身長(五フィート七インチ=約一七〇センチ)が低いからか」。日本との戦争が終わって間もない時期でもあり、「偏見や差別意識ではないか」とまで考えた。苦くつらい思いと、どうしても結び付いてしまう。そう感じた自分自身へのいら立ちがあったのかもしれない。

 四七年春にミサカと出会ったケイティーは、プレー姿を見たことはないが、ユタ大チームの中心選手だということは知っていた。

 結婚して五十年以上経つ。それでも、バスケットや軍隊時代の思い出を聞いたことはほとんどないという。「彼は自分の中で、いろんな感情を処理してしまう人」とケイティー。沈黙を通す理由は、ミサカ以外に誰も分からない。<敬称略>



8月19〜24日 世界バスケ1次リーグ広島開催