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第1部 歴史を超えて
4. 進まぬ移転 日米間ですれ違う思惑 2007.03.02

 狭い廊下にはみ出した大型機器を、白衣姿の職員が窮屈そうに扱う。軍隊の兵舎を思わせる放射線影響研究所 (広島市南区、放影研)。施設内には、古めかしさと最新の機器が同居する。

 比治山山頂に原爆傷害調査委員会(ABCC)が完成したのは一九五〇年。設計、施工は米軍が担当した。「予 算の範囲で補修していますが、追いつきません」。二〇〇一年の芸予地震でできた壁のひび割れが今も残り、山 根裕幸用度課長の表情はさえない。

 〇四年九月の台風18号では、十数時間にわたって停電した。備蓄燃料が減り、自家発電機が停止寸前になっ た。被爆者が提供し、低温保存している血液が失われかける危機は、職員が軽トラックでガソリンスタンドを回 ってしのいだ。

 老朽化問題の打開策として、施設移転が論議されて久しい。広島市は八六年、広島大工学部跡(中区)の七千 平方メートルを取得し、受け皿を整えた。市議会も三度、移転を求める意見書を可決した。

 しかし、移転は一筋縄でいかない。「外交」という壁がたちはだかる。放影研の予算は日米両政府が負担する。 米国の政治日程やホワイトハウスの方針を理由に、予算の削減や凍結が一方的に通告されることが、過去に何度 もあった。昨年度の放影研予算は三十六億六千万円。十年間で十億円以上減っている。

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 放影研は九三年、移転の青写真を固めた。地上五階、地下一階の新施設を九六年春に完成させる計画だった。 はねつけたのは、財政赤字の削減に熱心だった当時のクリントン政権だった。  「握ったデータは離さない。しかも、投資は極力避けたいという態度だった」。移転交渉のため九四年、米エ ネルギー省(DOE)に乗り込んだ平岡敬元広島市長によると、運営予算を握りながら核兵器開発を担うDOE との交渉は、すれ違いの連続だったという。

 「放影研は(米国と切り離して)日本が抱えるぞ、と言おうとしたら、外務省から止められた。研究成果の所 有権を主張する米国への遠慮があった」。日本政府の姿勢にも疑問を示す。

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 放影研は〇五年、「将来計画試案」をまとめたが、研究課題の紹介に終始した。識者でつくる専門評議員会か ら「運営の戦略が示されていない」「(予算危機は)日米両政府とのコミュニケーション欠如を示す」と酷評さ れる始末だった。

 昨年十二月、放影研の将来像を議論する第三者機関「上級委員会」が発足した。委員は日米各四人の八人で構 成、今後の研究方針や人員体制がテーマに据えられる。しかし、DOEは「(科学的課題以外の)多くの問題を 扱うと大変ではないか」と指摘し、運営面での将来論議に消極的な姿勢を見せる。

 広島市や医師会などが移転を要望し続けるが、事態は一向に動かない。平岡元市長は迷走の理由をこう解説す る。「研究成果のみに関心を示すDOEと、米国の様子を眺める日本政府。移転問題は放影研の将来を日米双方 の政府が真剣に考えていない象徴だ」(石川昌義)

【写真説明】廊下にはみ出した冷凍庫から研究資料を取り出す職員。老朽化とスペース不足が顕著になっている



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