中国新聞

第2部 山里で

■ 4 ■ 消えたムラ

 移住先の田畑で影再び

「猪変(いへん)」
(03.1.24)


 「イノシシの被害で消えた集落がある」と聞いた。中国山地を背 にした広島県湯来町の南部、阿弥陀山のふもと。車一台がやっと通 る急坂の向こうに、めざす中倉集落の跡はあった。

 棚田の石垣はこけむし、水路に雑草が茂る。廃屋近くの墓地に、 一回り大きな墓が立っていた。「幾百十年来の歴史も漸(ようや) く終焉(しゅうえん)近きを想(おも)う」とある。滅びを予感し た住民たちの共同墓だった。墓石を建てた一九六七年、集落には誰 もいなくなった。

 ◇ ◇

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地図 廃村になった古里を訪ねた元川さん。兄の住居跡でひとと き、表情が和んだ(広島県湯来町)

 広島市安佐南区に住む田村満義さん(75)、スミエさん(73)夫婦 が、中倉集落を離れたのは六二年。離村は早い方だ。五〇年代後半 に現れたイノシシの被害に耐え切れなかった。「何を作ってもだ め。コンニャクイモ以外は、全滅じゃったねえ」とスミエさん。

 集落には三十戸、二百人ほどが暮らしていた。二つの谷が南向き に開け、棚田や段々畑が並んでいた。水はけがよく、米や野菜、コ ンニャクイモがよく取れた。

 住民は農地を木製のさくで囲い、銃で追った。爆音を鳴らす脅し 道具も竹筒と炭の粉で手作りした。「戦後はひどい食糧難でね、山 の奥まで田んぼを広げとったんですわ。すみかを横取りした付けが 回ったんかなあ」。当時は憎いばっかりだった満義さんも今は、そ う振り返る。

 一人だけ町内に、かつての住民が残っていた。元川憲雄さん(7 1)。中倉集落から一・五キロほど下った、国道沿いの集落に住んで いる。「うちは一家七人、イノシシに追い出されたんよ」

 ◇ ◇

 六三年の暮れ、元川さんは山を下りた。あの「三八豪雪」の年で ある。獣害と、雪と―。人々は我慢できず、海沿いの温暖な都市部 に移っていった。人手が減ると、水路や道の補修、祭りや葬式は滞 った。集落は、雪崩を打つように崩れ、そして廃村になった。

 元川さんは引っ越し先でも、三十アールの田畑を作ってきた。イ ノシシの夜襲は気配もなく、耕作に打ち込めた。のんびり、耕作を 続けてゆく心づもりが九〇年ごろ、狂った。イノシシが、また現れ たのだ。

 電気さくを買い、田畑を囲った。電線に雑草が当たると電圧が落 ち、効果がない。一雨ごとに草が伸びる夏場は、草刈りや見回りに 気を抜けない。「中倉の集落が防波堤だったんじゃね。あそこでせ き止められとったイノシシたちが、里に下りて来たんじゃろう」と 元川さん。「根比べは、いつ終わるんかねえ」

 毎年八月、元住民たちは墓参りを兼ね、集落跡に集まっていた。 「古里がイノシシのねぐらになるのは忍びない」と、元の田畑や自 宅の周り、道端で草を刈った。廃村から三十六年。その集いも二年 前のお盆から、開かれていない。

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