中国新聞

第4部 合縁奇縁

■ 1 ■ 天の恵み

 牙も毛も余さず工芸品

「猪変(いへん)」
(03.3.17)


 朝青龍が連覇で、横綱昇進を決めた大相撲初場所。筋骨隆々のか いなに次々抱かれた優勝杯の一つに、飾り彫りのイノシシが透けて 光った。

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上=イノシシを彫ったチェコ国友好杯(赤いのは背景の色紙の色)
下=初場所に優勝した朝青龍に手渡された

 有名なボヘミアングラス製のチェコ国友好杯。大阪万博を機に一 九七〇年から贈り続ける友好杯は絵柄には、土俵風景に加え、イノ シシを担ぐ古代神話の勇者を刻む。

 イノシシを図案に写し取る西洋工芸も、牙や毛まで素材に使いこ なし、芸術品に仕上げる日本工芸の粋には、あこがれるようだ。そ の代表格の一つが、石見根付(ねつけ)である。

 ◇ ◇

 根付は、印ろうを帯に留めるひもの先に飾る細工物。江戸時代に 流行した。象牙製が目立つ中、島根県西部の石見地方ではイノシシ の牙を使った。

 「江戸は遠く、舶来品の象牙は手に入れにくい。じゃあ、どうす るか。身近なイノシシに自然と、目が行ったんでしょう」。石見根 付の技をくむ江津市の彫刻家、田中俊〓さん(60)は先達の苦心に思 いを巡らす。

 石見根付は江戸後期、現在の江津市で根付師清水巌(一七三三~ 一八一一)が編み出した。湾曲した長さ十センチほどのイノシシの 牙を彫り、クモやカニ、草花、時には和歌も刻んだ。清水一門は三 代で途絶え、作品の多くが英国や香港、ハワイなど、海外の収集家 の手元に渡っていった。

 田中さんは一九六七年から、「郷土の宝」石見根付の復活に取り 組んできた。エナメル質の牙は硬い。国内の収集家に借りたわずか な作品が師匠。満足な出来ばえになるまで、十年かかった。

 地元のハンターから譲り受ける牙に最近、異変が起きている。 「江戸時代のものに比べて、小さいんですよ」。駆除が進み、大物 が減っているのだ。「昔は山で、気兼ねなく育ったんでしょうが ね。人間も今ほど、乱暴をしなかったのかもしれません」

 ◇ ◇

 鯨と同様、イノシシも日本社会はタンパク源だけでなく、丸ごと 使い切る工夫を凝らした。

 筆の里で知られる広島県熊野町では、筆の穂先にイノシシの毛も 使う。「大地の恵みは、すべて原料ですからね」。筆の里振興事業 団の藤森孝弘事務局長(48)は、事もなげに答える。

 百七十年、連綿と受け継がれた筆づくりの技は、枝毛が多く、硬 いイノシシの毛を穂先に変える。イノシシ筆は、かすれや力強さに 独特の書き味が出るという。

 四代目の筆職人で伝統工芸士の実森康宏さん(57)が、自宅の工房 で筆を見せてくれた。「伝統工芸品は大量生産には向かない。イノ シシ筆も、毛が手に入った時にだけ作る。自然との、ゆったりした 付き合いの中から工芸品は生まれるんです」。自然と生きるとは、 そういうことだと実森さんは思っている。

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