TOPNEXTBACK


「神宿る みやじまの素顔」    10.朱の回廊
幾多の危機 島民が救う

笏(しゃく)を手に、朱の柱の間を進む神職たち。狩衣や袴(はかま)の白や浅黄(あさぎ)が映える

 柱や欄干の朱が水面に揺れる。神職がまとった白い狩衣(かりぎぬ)も、ほんのり染まっている。朝座屋(あさざや)を出て客(まろうど)神社へ。毎月一日、十七日に執り行われる月次(つきなみ)祭。神職十九人が列をなして回廊を進み始めた。

 厳島神社回廊。百七間というから二百メートル近い。東回廊四十五間、西回廊は六十二間。社殿をつないで海上をめぐる。歩を進めながら、参詣者は神威に触れ、美しさに嘆息する。ひととき人を別世界へいざなう回廊は、数々の災害をくぐり抜けてきた。

 明治三十三(一九〇〇)年八月十九日、神社の日誌。

 「東南ヨリ暴風起リ加之高潮満溢(まんいつ)も勢甚敷(はなはだしく)非常太鼓千畳閣警鐘打鳴シ候処早速人民寄集リ用意ノ石ヲ持出シ危険之場所ヘ夫々(それぞれ)防御置手当致」

 暴風と高潮で本殿や回廊が大破し、掲げられていた絵馬など三十五枚が流失するなどした大災害。その最中、回廊の床板流失や平舞台の浮上倒壊を防ごうと奮闘する島民の姿が記録される。

 「枕たあ大きいよ。重かった思うね」。神社近くで木工芸品店を営む福田昭一さん(79)も戦後、高潮があると駆けつけ、床板に重しを並べた。「神社から大太鼓が響いたら皆、集まりよった。連帯感いうもんがあった時代のことよ」。その非常時用の石は本殿裏の後園に積まれている。一つ持ち上げると、ずっしり重かった。

 非常時用の石が備えられる以前、神社の大事に住民は、立ち並ぶ石灯籠(とうろう)の石を持って集まったという。回廊を守った後、また積み戻された。その際に混乱したものか、西松原や御笠浜にはバランスがちぐはぐだったり、角を欠いたりした石灯籠がある。

 三年ほど前から重しは土のうに替わった。最近では毎年のように回廊を覆う高潮に、備えを早くから整える。消防団もいる。非常太鼓に駆けつける島民の姿はもうない。

 行列は客神社から本社へ向かい始めている。神職たちの浅沓(あさぐつ)が床板を打って響く。この音はいつの時代も変わらないだろう。

−2006.1.8

(文・田原直樹 写真・田中慎二)


回廊 国宝。東西合わせて107間。檜皮(ひわだ)ぶきの屋根に覆われる。1168(仁安3)年の「伊都岐島社神主佐伯景弘解」には113間と記述。13世紀半ば、大幅に伸長され、180間となる。1541(天文10)年の土石流で壊滅的被害。再建によって108間になるが、1784(天明4)年の修復時、1間切り詰められたらしい。 地図


TOPNEXTBACK