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「神宿る みやじまの素顔」    9.鎮火祭
変わらぬ願い照らす炎

大小のたいまつの炎が交錯する御笠浜。一年の火難よけの祈りが島を包んだ(31日午後6時15分)

 大小の炎が闇を照らし、集まってはまた散っていく。三十一日午後六時すぎ、厳島神社大鳥居を望む御笠浜。「よい、よい」「よい、よい」。たいまつをかついで浜を繰り返し往復する掛け声に近づくと、火の粉と煙を浴びた。冷え切った体には、心地よささえ感じる。

 長さ四メートルを超す手づくりの大たいまつを担ぐ宮島町商工会青年部の若者たち。その中に弥山のふもとで旅館を営む渡辺茂雄さん(35)の姿があった。青年部長となって半年余り。この日の思いは特別だった。

 九月、弥山原始林で六十年ぶりに発生した土石流。改装したばかりの旅館に膨大な土砂が流入し、全面復旧に二カ月かかった。「来る年こそ災害のない一年に」。たいまつの炎に願いを託した。

 鎮火祭の「伝説」が、宮島歴史民俗資料館に保存されている。一九六七年、島の杓子(しゃくし)問屋が出した高さ約六メートルのたいまつだ。後にも先にもない巨大さは、まさに宮島のにぎわいの象徴だった。

 観光ブームにわいた高度成長期。大みそか、島を挙げてたいまつを繰り出した。旅館、商店、金融機関、町役場…。学年ごとの同窓会も大きさを競った。浜を埋める炎は対岸から、光の波に見えたという。

 バブル崩壊後、大たいまつは減り、最盛期の五分の一ほどになった。豪華なものだと制作費はゆうに百万円以上かかる。「昔のにぎわいは、見る影もない」。伝説の巨大たいまつをかついだ一人は、寂しそうにつぶやいた。

 四年前から、宮島で家業を継いだ青年たちが材料を持ち寄り、手弁当で仕上げた大たいまつを繰り出す。少しでも祭りを盛り上げたいとの願いからだ。「今も昔も、宮島の人たちが鎮火祭に託す思いは変わらない」と渡辺さんは言う。

 炎がすべて消え、人波がいったん途切れた御笠浜。気が付くと、二年参りの初詣で客たちが、フェリーで続々と到着している。神の島はまた、新たな一年を刻み始めた。

−2006.1.1

(文・梨本嘉也 写真・藤井康正)


鎮火祭 12月31日夜の厳島神社の火難よけの祭り。もとは神仏習合の時代、弥山の修験道の山伏たちが営む行事で、「晦日(つごもり)山伏」と呼ばれた。明治以降、神社の行事となった。住民が大小のたいまつを持ち寄り、神社でともした「斎火(いみび)」を御笠浜で点火させ、持ち帰って一年の火難よけとする。かつてはその火を元旦の炊事に使っていた。現在は消防車が待機し、完全に消火してから持ち出す。 地図


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