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「神宿る みやじまの素顔」    11.シカの通勤
薄らぐ野生 餌求め下山

朝、多宝塔から大願寺前に下る階段に姿を見せたシカの親子。観光客が散策し始めるのを見計らうように山から下りてくる

 親子だろうか。まだ薄暗い朝、多宝塔から大願寺へつながる石段を一組、また一組と、山からシカたちが市街地へ下る。島の人たちが「シカの通勤」と呼ぶ光景だ。

 道々、しきりに何かをはんでいる。腹をすかせているのだろう。厳島神社の周りでは、観光客にためらいもなく群がった。夕暮れになると、同じ道をたどり、再び山へと戻る。

 「お目当ては観光客が与えるせんべいや弁当の食べ残し。宮島のシカは野性を失いつつある」。環境省の自然公園指導員、菊間馨さん(48)=廿日市市=は言う。

 植物を食べないため、角は細く、毛づやも悪い。自然の中で餌を探す力を失い、桟橋付近にすみつく群れもいる。餌付けが原因である。

 島ではシカを「神の使い」とあがめ、保護してきた。家に入るのを防ぐ鹿戸(しかど)、残飯を与えた鹿桶(しかおけ)…。島の暮らしに密着した愛らしい生き物として共存してきた。

 第二次大戦後、一時激減した。島の人たちは京都府から譲り受けて繁殖に努めた。観光ブームが始まった一九七〇年代から再び増え始めた。

 だが、市街地に下りるシカは、以前は見向きもしなかったシバナなど山すその希少種の新芽や樹皮を狙い始めた。初夏に芽吹く沿岸部のモミの幼木も食べ尽くし、芝地が広がる。

 島では八年前から「餌をやらない」運動に取り組む。それでも、増えすぎたシカが食べ物にあぶれ、弥山原始林や二次林の植生を脅かすと危惧(きぐ)する専門家もいる。共生の道は見えてこない。

 かつて、谷や原には「関」と呼ばれる老大ジカがいた、という。それぞれの生息域で、群れを統率し、自然豊かな島の木の実や葉などで命をはぐくんできた。

 「初春に はじめて鹿の声きけば いつも恵はゆたかなりけり」。一六〇八(慶長十三)年正月、広島藩主、福島正則が喜びを込めて詠んだ。その良き時代を思いながら、弥山の博打(ばくち)尾を歩いた。

 突然、立派な角を生やした雄ジカが姿を見せた。筋肉は盛り上がり、毛づやを輝かせる。果たして「関」なのか。その澄んだ目に、しばし見とれた。

−2006.1.15

(文・梨本嘉也 写真・藤井康正)


宮島のシカ 島が本州を離れた6000年ほど前から生息しているといわれる。宮島とシカの歴史を研究した福田直記さん(1986年死去)は、「神の使い」と大切にされる理由を考察し、春日大社(奈良県)などの神鹿(しんろく)思想が、神の島として殺生を嫌う島民の風習と結びついたのだと分析した。宮島町(現廿日市市)は終戦後の激減を受け、殺傷や犬の飼育を罰則付きで禁止して保護した。25年前ごろから餌付けによる半野生化が問題になってきた。 地図


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