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「神宿る みやじまの素顔」    33.船旅
行き交う航跡 今も昔も

日暮れて大野瀬戸を行き交うフェリー。夜の船旅は違った趣がある(多重露光)

 フェリーが宮島口を離れる。島の桟橋まで十分間。船旅とはいいがたいような短い航路だが、いつも心弾む。朱のストライプが鮮やかなJRの連絡船、さわやかなブルーの船体は宮島松大汽船。狭い大野瀬戸を神の島へ。観光客や住民、車や物資を載せて行き交う。

 この海を一体、どれほどの船が往来してきたのだろう。平清盛や高倉上皇は、遠く都から大型海船で来たらしい。足利義満や毛利元就は軍船だったはずだ。

 「廿日市が『佐西(ささい)の浦』と呼ばれていたころ、南北朝時代の武将今川了俊もここから日帰りで参詣したんです」。廿日市市の郷土史研究家藤下憲明さん(62)は語る。了俊は「道ゆきぶり」に「ろう(廊)の下まて汐(しお)みち入たり、鳥井は海の中にたゝり(中略)見所(みどころ)かぎりなく侍るなり」と記す。

 「昔は小さな櫓舟(ろぶね)でゆっくり渡ったものでしょう。時間はかかっただろうが、厳島に渡るのは特別なことだったはず」と藤下さん。

 神聖な島はまた、瀬戸内の交易港としても栄えた。各地や異国から商人が訪れ、市が立った。江戸時代には日本三景の一つに。参詣者や物資を満載した帆掛け船が寄せたのは神社東の有浦(ありのうら)。にぎわう様は「有浦客船(ありのうらのかくせん)」として厳島八景にも数えられた。今や面影はないが、表参道商店街の北側の海辺にたたずむと、船のひしめき合う音が聞こえるようだ。

 一八九七年、宮島口に鉄道駅が完成。定期船が運航を始め、現在の連絡船航路となっていく。それ以前の渡船について、厳島民俗資料緊急調査報告書(一九七二年)に証言がある。島には船頭十〜十五人の組が三組あり、櫓船で対岸まで三十分ほどで渡したという。

 広島へ客や荷、郵便を運んだ番船もあった。追い風に帆を張ると二時間。帰りは夜、たいてい櫓をこいだ。潮の悪い時には夜が明けて到着したという。船頭はどんな歌を口ずさんだのだろう。

 思い巡らすうち、すっかり暮れていた。フェリーは照明をともし、行き交い始めた。桟橋へ急ぐ。

−2006.6.18

(文・田原直樹 写真・田中慎二)


宮島航路 明治時代には、大阪―下関、尾道―別府などの定期航路が寄港していた。能美―厳島をつなぐ汽船もあった。廿日市市宮島観光事務所によると、昨年の来島者数は前年より4万人余り多い約266万人。宮島口からのフェリー利用者はJR連絡船が約134万人、宮島松大汽船が約130万人。このほか、島と広島・宇品を結ぶ定期航路もある。 地図


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