TOPNEXTBACK


「神宿る みやじまの素顔」    34.弁財天ご開帳
島民の信仰集め1200年

僧侶や信者の読経にあおられるように、護摩木が勢いよく燃え上がる。秘仏のため、右奧にある弁財天の撮影は禁じられている

  十七日午前八時。厨子(ずし)の扉が開かれた。暗がりから浮かび上がる大願寺の厳島弁財天。待ちかねた人々が、深々とぬかずく。

 福徳、生産、智恵、海運、音楽、弁論…。さまざまな願いをかなえる「日本三弁天」の一つに数えられる。すべてを受け入れてくれるかのような柔和な表情。朱の衣をまとう小ぶりな木像は、高さ約六十センチ。煩悩を断ち切る智(ち)剣、願いをかなえる宝珠などを八つの手に持つ。

 終戦まで、開帳は弁財天の使いにちなみ、六十年に一度の「己巳(つちのとみ)の年」だけだった。「死ぬまでに拝めるのだろうか、と心配する信者さんの願いを受け、年一回になったと聞いています」と、四十世の平山真明住職(50)。現在は年に一回、大祭の日に開帳される。

 八〇六(大同元)年、弘法大師が唐の帰途に立ち寄り、厳島大明神として厳島神社にまつったと寺に伝わる。江戸期には、全国の商人が参拝に訪れた。宮島名物の杓子(しゃくし)も、芸の神様である弁財天が奏でる琵琶の形をイメージしたと言われる。

 大願寺は普請奉行として代々、厳島神社の営繕を担っていた。安置されたのは明治のはじめ。神仏分離による廃仏棄釈で、寺や仏像が壊されるさなかのことだった。

 「弁財天をお守りしよう」。当時の三十六世、光典住職が、境内のある大西町の宮大工や酒店主らに呼び掛けた。住民を中心に世話人会をつくり、大祭は始まったという。

 「子どものころは夜店や映写会も開かれて、にぎやかだったよ」。祖父の代から世話人を務める旅館「錦水館」の武内恒則社長(52)は懐かしむ。喜んで手伝っていた父の死後、当然のように世話人を引き継いだ。

 バンッ、バンッ―。教典を打ち付けては宙を泳がせるようにめくり、島内外の僧侶たちが経文を読み始めた。信者たちの読経も重なって境内に響き渡る。

 護摩木が勢いよく燃え上がった。千二百年も信仰を集めてきた仏は、いくつの願いを聞いてきたのだろう。その優しい顔を、いま一度拝んだ。

−2006.6.25

(文・梨本嘉也 写真・藤井康正)


大願寺 千畳閣と五重塔のある塔の岡(亀居山)に本堂があったことから、「亀居山放光院大願寺」が正式な名前。数多くの社寺の修理・造営を一手に担い、全国で托鉢(たくはつ)を許されていた。現在の建物は、神仏分離令が出されるまで、客間のある僧坊や厳島神社の社務所だった。千畳閣(大経堂)と五重塔、多宝塔や諸堂宇と合わせて「厳島伽藍(がらん)」と呼ばれた。 地図


TOPNEXTBACK