息を切らしながら、がけを取り巻く険しい山道を登った。弥山と並ぶ宮島の主峰・駒ケ林(五〇九メートル)。毛利元就が奇襲で陶晴賢軍を破り、中国地方の雄となった厳島合戦(一五五五年)は、この頂で終結した―。そんな伝承に、以前から心ひかれていた。
絶壁に囲まれた山頂は狭い。七百平方メートルほどの平らな岩場。丸みをおびた岩を前に進む。そそり立つ断崖(だんがい)の下をのぞく前に足がすくんだ。陶晴賢が敗走し、自刃してからも三日間、陶軍の名将・弘中隆包父子ら約百騎が最後まで戦ったとされる古戦場だ。
「甲冑(かっちゅう)を着て上がるのは大変だったでしょうなあ」。一緒に登った広島市佐伯区の会社員岩崎義一さん(50)が、歴史愛好家らしい感心の仕方をする。
戦国史の流れを変えた戦から今年で四百五十周年。今は古戦場の雰囲気はない。旧宮島町の説明板が立つ傍らで、登山者たちがのんびり弁当を広げ、大野瀬戸を望む絶景を楽しんでいた。
厳島合戦の実像は謎に包まれている。毛利元就の英雄譚(たん)として江戸時代に軍記物で紹介された物語が、いわば「史実」として定着している。弘中父子の決戦の地も後世になって駒ケ林に比定されたらしい。巨大な断崖に守られ、岩肌が露出したその奇観は、敗走して追いつめられた若い武将たちの最期の地にふさわしくも映る。
厳島神社に隣接する真言宗大願寺の四十世住職、平山真明さん(49)は、駒ケ林に出る武者の幽霊の言い伝えを古老から聞いたことがある。
戦国時代、陶方とも毛利方とも交流があった大願寺は、合戦から百年後、激戦地だった大元浦に「血仏」と呼ばれる供養塔を建立した。県が管理する大元公園となってから特別な法要はなくなったが、「今も戦死者の供養は続けている」。
史実と物語。そして伝承。厳島合戦は長い歳月を経て、島の人たちの心に刻み込まれている。 −2005.12.4
(文・岩崎誠 写真・田中慎二)
厳島合戦 日本三大奇襲戦の一つで、中国地方の覇権をかけた1555年の毛利元就軍と陶晴賢軍の決戦。包ケ浦に上陸した毛利軍は10月1日早朝、数で勝る陶軍が本陣を置いた塔の岡を背後から急襲。敗走した晴賢はその日のうちに大江浦(高安原との説も)で自刃したとされる。合戦後、元就は厳島神社の再建に尽くした。神官・棚守房顕の覚書が最も信頼できる史料。江戸時代、軍記物「陰徳太平記」などで脚色されていった。
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