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「神宿る みやじまの素顔」    7.千畳閣
多様な祈りを包む空間

しっとりと琵琶や笛の音が響く千畳閣。さまざまな使われ方で人々を包み込んでいる

 がらんとして何とも素っ気ない。千畳閣の名で知られる豊国神社。百十六本もの柱が立ち並ぶが、華美なところはない。見渡せば、数々の大きな絵馬やしゃもじ。その上に小屋組が高く広がる。寒風が吹き抜ける中に立つと、遠い昔話を語る大絵馬のざわめきが聞こえてくるようだ。

 人々は神仏に願いを託した。武運、商売繁盛、天下太平…。絵馬はその痕跡である。多くの祈りは届いたのだろうか。荒馬や武将の絵に交じり、柔らかな表情の翁(おきな)やむつまじいシカの図も見える。

 「子を授かった夫婦が納めたのかも」。厳島神社の絵馬を研究する広島女学院大大学院の原田佳子教授(64)は「楓(カエデ)に鹿(シカ)の図」に目を細める。願かなった感謝の奉納もある。

 かつて絵馬は厳島神社の回廊にびっしり掲げられていた。参詣者を楽しませたが、明治中期になり、著名な作品は宝物館へ、残りは千畳閣へと移された。

 亀の甲羅といった風変わりな物もある。こぞって珍品を奉納した人々の姿がうかがえ、面白い。「いつの世も多様な願いを受け入れる、宮島のおおらかさが感じられますね」。吹き込む風雨や時の流れに、絵馬はその図を消そうとしている。

 今秋、千畳閣に琵琶や笛の音が響いた。観光キャンペーンの一環。多くの人を平家物語の世界へいざなった。フラメンコ、ポップス公演、寄席。ここを舞台に、数多くの歴史が演じられてきた。

 もとは秀吉が戦没将兵の供養に建立した大経堂は、明治の神仏分離で秀吉を祭る神社になる。明治中期まで、特産の色楊枝(ようじ)など物売りの場だった。博覧会が開かれ、相撲や剣術が奉納される。軍隊の借用も多く、日清戦争では傷ついた兵士の療養所ともなった。

 冷たい床板に足が凍る。長くたたずんだらしい。拝観者もまばらな冬の日。朱の鮮やかな五重塔や厳島神社のそばで、素木(しらき)の千畳閣には別の時間が流れる。さまざまな祈願、用途を包みこむ空間は、やはり宮島らしい。

−2005.12.18

(文・田原直樹 写真・藤井康正)


千畳閣 正式には厳島神社末社豊国神社本殿。桃山時代の豪放な造りを持つ重要文化財。1587(天正15)年、豊臣秀吉が安国寺恵瓊(えけい)に命じて造営。月一度、千部経を読む経堂を企図したが、秀吉の死により未完のままとなる。1872(明治5)年、仏像を大願寺に移し、豊国神社とした。実際には畳857枚の広さがあるという。 地図


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