▽「新型爆弾は原子爆弾」京都帝大調査団、科学的に分析
広島市に原爆が投下されて九日後、科学的分析で「新型爆弾は原子爆弾」と判定した電報を、呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)が寄贈を受けていたことが二十三日、分かった。日本側が原爆と結論付けるまでの経緯が分かる第一級の被爆関連資料に、研究者らの注目が集まっている。
打電したのは戦時中、原爆研究の第一人者だった京都帝国大(現京都大)の荒勝文策教授(一八九〇〜一九七三年)。荒勝教授を中心とした同大調査団六人は海軍の要請を受け、一九四五年八月十日に広島入りした。
海軍の調査団と合流し、十四日までに計二回、土壌調査を実施。分析後、十五日付で海軍技術研究所に「シンバクダンハゲンシカクバクダントハンケツス」と緊急電報を発信。電報には、受け取った海軍が添え書きしたとみられる「新爆弾ハ原子核爆弾ト判明ス」の一文もある。
原爆の被害調査については、呉鎮守府調査隊が七日に広島入りし、未使用のエックス線フィルムが感光していたことなどから「ウラン爆弾と推定できる」と八日付で報告している。
荒勝教授の電報は「科学的測定を重ねた専門家による国内初めての原爆認定」(海事館)で、日本側が被爆後すぐに爆弾の実体をほぼ正確に把握していたことを示している。
土壌調査報告書は、放射能(β線)の計測結果を二枚の折れ線グラフにし、A4判九枚のリポートにまとめている。西区の横川駅周辺や天満橋付近、南区の宇品地区など爆心から一・五―四・五キロの二十四カ所で「放射能強度」を調べ、原爆の威力や白血球減少などの人体への影響に関する専門的な記述もある。
これらの資料は海軍調査団員で、荒勝教授のもとで活躍していた北川徹三技術中佐の遺族が海事館開館に先立って、昨年秋に寄贈した。同館は現在、他の寄贈品十五点とともに展示している。戸高一成館長は「日本にも原爆について科学的に分析する能力があったことを示す貴重な資料となる」と話している。
    
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