米国の核物理学者として原爆開発のための「マンハッタン計画」に加わり、戦後は中国で暮らすジョアン・ヒントンさん(86)が六日朝、平和記念公園(広島市中区)を訪れた。「純粋に科学を信じ、誰がどう使うかまで思いが至らなかった」。六十三年前に多くの人が命を落とした川辺で、後悔の言葉を繰り返した。
次男ビル・エングストさん(53)に伴われ初めて訪れた被爆地。公園のそばを流れる元安川に花を手向け、「深い悲しみを感じる」と涙ぐんだ。
大学院生だった一九四四年から、ニューメキシコ州のロスアラモス研究所でウラン精製に携わった。広島への原爆使用は投下から数日後の新聞で知り、仲間と米政府に抗議した。
「ドイツより先に開発に成功するためとばかり思い、人を殺すために使うとは考えもしなかった」。自責の念から身を隠すように四八年、中国に渡った。反戦を訴え続け、北京市郊外で酪農をして暮らす。被爆地への贖罪(しょくざい)の旅は悲願だった。
ヒントンさんは、原爆を製造した科学者たちを描いた米国のノーベル賞作家パールバックの小説「神の火を制御せよ」の主人公のモデルとみられ、邦訳を出した東京の出版社が招いた。(森田裕美)
【写真説明】次男エングストさん(右)とともに平和記念公園を訪問、開発にかかわった原爆による犠牲者をしのぶヒントンさん
    
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