'99.7.5


届かなかった母の願い (1)

生と死の軌跡
 戻らぬ娘 連日捜す

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被爆直後、死没者や行方不明者の消息が記された「伝言板」。写真では6つの伝言が確認できる(1945年10月、文部省学術調査団撮影隊員だった故・菊池俊吉氏撮影)
 「校舎の壁にも書いていたとは・・・。初めて知りました。母は毎日のように学校へ妹を探しに行っていたから」。一緒に妹を探した土井順子さん(67)=東京都渋谷区=の脳裏に五十四年前の夏がよみがえる。母は、通学路で妹と同じ背丈の死体の顔をのぞき込んでは、防火水槽やがれきに、次々と伝言を残して回った。

■市長に手紙

 「お願ひ 土井佑子・・・」。母のシヅさん(一九八一年に七十四歳で死去)は、当時十歳の三女との再会を信じて、袋町国民学校(現・袋町小、広島市中区)の壁に、そう書き記した。

 祐子さんは八月六日朝、登校したまま戻らなかった。病死した夫の実家を頼り、母娘の五人で東京から広島に疎開中だった。校区内の自宅跡にバラックを建てて帰りを待ったが、その年の十月、四人で帰京した。

 「母は、妹の死亡通知をなかなか出さず、広島市長に消息を尋ねる手紙を出し続けていた」と順子さん。「でも、広島や原爆のことにほとんど触れなかった」。そう言って口をつぐんだ。

 爆心四百六十メートル。教師が親が、ススで真っ黒になった校舎内の壁に、子らの安否などを尋ねてチョークで記した「伝言板」。袋町小の全面改築を計画している広島市教委が今年三月、漆喰(しっくい)に覆われていた一階階段の南側壁面の一部を削ったところ「寮内」の二文字が見つかった。

 市教委は保存調査を検討中で、他の文字は未確認だが、文部省学術調査団が四五年十月撮影した一枚の写真が、漆喰の裏側に残された生と死の軌跡を証明する。

教え子生存 記した教師

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漆喰の下から姿を現した伝言の一部。「寮内」の2文字がみえる
■生存者4人

 写真に残る六つの伝言に記された人たちは、土井さん母娘を含め計十三人。生存者は四人、被爆死した三人を含め七人が死亡、残る二人は行方が分からない。

 「加藤先生 本校高二 三好登喜子・・・」。二女の担任だった加藤好男さん(79)にあて、父茂さんが娘の死を伝えたものだ。原爆で家族七人のうち、妻子五人を失った。十二歳だった登喜子さんは郊外の収容先で、八日後に息を引き取った。

 長女の土井美代子さん(69)=安佐北区深川二丁目=が家族をしのぶ。「桐(きり)の箱を抱えて帰って来た父の姿が今も目に浮かぶ。どんな思いで字を書いたのか・・・」

 その左の「本校一年生 荒木絹枝 生死不明・・・」。母キミヨさんが、わが子の消息を尋ねた伝言である。今回見つかった「寮内」の二文字は、東洋製罐広島工場の寮のことと思われる。半世紀余りを経過して、同社は調査不能とし「南観音町(西区)三六〇」は、当時の地図からも特定できないが、キミヨさんは連絡場所として「東鑵寮内」と書き記したとみられる。

 「加藤」の二文字が三カ所にある。壁に初めて伝言を記した当時の加藤先生だ。

■同僚に託す

 「高一瓢文子ガ火傷シテ・・・」。校舎南約六百メートルの建物疎開作業に生徒を引率中に被爆し、高熱が続き寝込む直前の二十日前後に書き込んだ。離れ離れになった約三十人の教え子の中から、唯一探し出した瓢(ひさご・現姓池田)文子さん(66)の無事を伝え、直爆を免れた同僚教諭藤木喬さん(89)に託したものだ。

 その後二人は、この写真がきっかけで二十八年ぶりの再会を果たした。


伝言板に記載された人たちの消息
(敬称略)
土井 佑子袋町国民学校5年で当時10歳。被爆死した模様
河(川)原 軍一土井一家の疎開先の知人。
 93年に89歳で死去(川の字は書き間違い)
土井 ヤエ佑子の伯母。58年に79歳で死去
土井 シヅ佑子の母。今の大手町で被爆。81年に74歳で死去
加藤 好男当時の教諭。建物疎開作業の引率中、今の国泰寺町で被爆。安佐南区古市2丁目在住。79歳
三好登喜子高等科1年で当時12歳(高二は書き間違い)。被爆場所は不明。8月14日、収容先の奥海田国民学校で死去
三好 茂舟入幸町の軍需工場で被爆。80年に77歳で死去。登喜子は2女
荒木 絹枝当時1年。生死不明
荒木キミヨ絹枝の母。消息不明
木村 武三当時の教諭。集団学童疎開の引率で三次市内にいた。中区広瀬北町在住。87歳
小林 哲一当時の校長。職員室で被爆し8月9日、郷里の広島県深安郡神辺町で死去
藤木 喬当時の教諭。福山市の実家へ帰省していた。同市熊野町在住。89歳
瓢 文子高等科1年。国泰寺町で被爆。救護所で治療中、加藤と再会。現姓池田。北九州市小倉北区在住。66歳
 (氏名は伝言板右からの順)



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