中国新聞



1年5学級

5学級の堀尾英治さんは被爆後、本川に飛び込み、下流の住吉橋で救助された。前進やけどで着衣が皮膚にくっついていたため、母敏子さんがはさみで上着とズボンを切って脱がした。片方だけ履いていた靴は、底が真っ黒に焦げていた=妹祐子さんが保存
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1年6学級

 6学級の山田哲治さんは「我が生活日誌」と題し、手製の日記帳に7月2日から26日までの日々を事細かにつづっていた(母ハルミさんが保存)。戦時下の中学生の暮らしぶりを伝える原文の一部を紹介する。
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6学級・山田哲治の日記

 7月7日土曜(天候)晴 本日、事変記念日
 起床6・10 登校7・10 警報・数Ⅰ・Ⅰ(ホ)
 帰宅13・50 就寝21・05 本日は七夕。

 朝礼の最中に警報発令。本日は三時間まで。(略)帰宅後、復習をすませ、大豆をポリポリやつてゐると”かうりやん”(注・トウモロコシ)と”小麦粉”の配給があるさうなので組合へ取りに行く。(略)家へ帰つて、隣組の”道ばた会議”(?)へ出席する。夕食はジャガイモ。その後とうもろこしを煎(い)る。

 7月9日月曜(天候)晴
起床5・40 出勤7・30 
帰宅19・25 就寝21・00  本日は作業

 本日は、又(また)も、矢口(注・芸備線沿い、現在の安佐北区口田地区)へ作業をしに行く。今回の矢口行は、第三回目である。本日の作業は、奥の谷で自分らは、材木の運搬が役にあたつた。すなはち、貯木場の木をあちこちとわけて置くのである。一時間内至(ないし)、一時間半ごとの休けいが待(まち)遠しい。(略)昼食jの休けいの時、23人を連れだつて、山を越して村へ水をくみに行く。そして冷たい水にありつけた時は、大へんおいしかつた。

 7月15日日曜(天候)
起床6・15 就寝22・00
帰宅11・40 登校7・15  英(注・英語)・警報発令

 ニ校時(自習)の中途、警戒警報発令。ワツといつてゐると空襲警報。そこで、ダーダ―先生、あわてて並ばずに帰れ…と呼ばはつてゐた。何のことはない。敵機は、皆広島へ来るかと思つてゐると、ほとんど、他所(よそ)へ行つてしまふ。

 昼食後 大豆を煎(い)って、後復習、それから、父(注・2年前に応召)への手紙を書いて工作を開始。(略)夕食はヂャガ芋のおかゆ。その後ねころんでゐると、警戒次いで空襲警報発令、急いで灯火くわん(管)制をして解除を待ち、直にねた。(後略)

 7月22日日曜(天候)曇時々晴
起床6・10 就寝21・00

 今日は二週間ぶりの休日。朝、顔を洗つて、朝食までが間があつたので、自転車に乗つて散歩(のりまはす)する。夏の朝はさすがに気持がよい。(略)やがて夕食、其(そ)の後、戸棚に入れておいた大豆(少量)を食べて就寝。本日の警報は午前に3度、午后3度である。
6学級の竹田雅郎さんの父俊二さんが作業現場跡で見つけた弁当箱とはし。遺体は見当たらなかったため、その場の砂を納めて持ち帰った。父が95年、原爆資料館に寄贈。
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