中国新聞社

99/11/17

ヒロシマの記録-遺影は語る  広島二中


死没者名簿 1年4学級


穐田(あきた) 悟(13)
広島市平塚町(中区)竹屋小8月6日自宅で被爆した母キミヨが捜しに向かうが、遺骨は不明。8日見つけたバックルを墓に納める。双三郡に縁故疎開していた小学5年の妹幸子は「当日は、行きたくないそぶりを見せていたと、母は悔やんでいましたが、残った私と妹には原爆のことはあまり話そうとしませんでした」爆心300メートルに職場があった父節造(45)と、三篠本町の工場へ動員されていた安田高女3年の姉節子(15)の遺骨は不明。

飯澤 清徳 飯澤 清徳(12)
広島市東白島町(中区)済美小8月6日母クラが捜すが、遺骨は不明陸軍主計大佐だった父清雄(53)は、爆心790メートルの中国軍管区司令部で爆死。


池田 宏吉 池田 宏吉(ひろきち)(12)
広島市猫屋町(中区)に下宿。疎開先は山県郡筒賀村幟町小8月6日父寛作が筒賀村出身の3学級の佐々木敏の母とともに捜すが、遺骨は不明。作業現場跡に並べてあった弁当箱の中から、本人のものを持ち帰り、墓に納める。姉董子は「幼いころからわがままを言わず、神風特別攻撃隊にあこがれていました。二中の慰霊碑に参ると、刻んである名前を必ずさすってやります」。

大瀬戸 健美 大瀬戸 健美(13)
広島市牛田町(東区)東京都立六中(現・新宿高)から転校8月6日父健雄が8日、学校で遺骨を受け取る。小学1年だった弟武治は「名前を彫り込んでいた弁当箱と、防空ずきんも持って帰りました」と話す。逓信省(現・郵政省)勤務の父の転任に伴い、世田谷区から家族5人で転居していた。

大成 正之 大成 正之(12)
広島市横川町2丁目(西区)三篠小8月6日母昌子らが救護所となった己斐小、似島などを捜すが、遺骨は不明保険会社勤務の父一企(47)は町内からの建物疎開作業に出て遺骨は不明。横川町の住民は爆心900メートルの小網町一帯への出動を命じられて いた。

大野木 隆 大野木 隆(13)
佐伯郡五日市町海老塩浜(佐伯区)五日市小8月6日遺骨は不明。16歳だった姉英枝は「役場勤めの父が応召中で千葉にいたため、7日から動員先の町内の工場を休んで母と一緒に捜して回りましたが、弟が新大橋のそばで整列してた以降のことは何一つ分か りませんでした」。

岡田 彰久 岡田 彰久(12)
佐伯郡小方村(大竹市)小方小8月8日自力で己斐町近くまで逃げたところを、小網町一帯での建物疎開作業に動員されていた小方村義勇隊員の救援に駆けつけたトラックで自宅へ運ばれ、8日午前7時ごろ死去。小学5年だった弟穆は「兄が『手を握ってくれ』と言うのでつかむと、ぬるぬるして皮がむけました。『二人分の親孝行をしてくれ』との言葉に、涙があふれました」。

尾首 寛 尾首 寛(ゆたか)(14)
広島市打越町(西区)神崎小8月6日遺骨は不明。山県郡に学童疎開していた小学3年の妹玉江は「制服の上着に付けていた名札を同級生の親が見つけてくださり、母朝子が受け取ったそうです」。


折免 滋 折免(おりめん) 滋(13)
佐伯郡八幡村寺田(佐伯区)八幡小8月6日母シゲ子が9日朝、本川土手で兵隊が火葬した遺骨と、名札の切れ端などを見つける。小学4年だった弟昭雄は「白骨となった腹の下には、真っ黒になった弁当箱があったそうです。父が召集され、兄が海軍兵学校に入った後は、母と滋が中心となって竹やぶを開墾し、最初にとれた小麦や大豆を詰めた弁当でした」。

是角 春登 是角 春登(13)
広島市横川町(西区)の伯母宅。実家は山県郡本地村(千代田町)本地小8月6日遺骨は不明。小学4年だった妹敏子は「両親は13日まで市内で捜し続け、死没者名簿に記載されていた兄の遺骨がある場所に行くと、間違えて持ち帰られていたそうです」と言う。保存する兄の手帳には「故里(ふるさと)より うれしきたより 父母ノふみ」なとど、親元を離れた下宿生活を詠んだ歌が残る。

権現 博文 権現 博文(13)
賀茂郡西条町(東広島市)寺西小8月6日父宅次が7日、自転車で向かったのに続き、母と姉が8日列車で捜しに行くが、遺骨は不明。兄卓三は「前の晩に桃を食べて下痢気味だったので、母が休みんさいと言うと、『お国のためだから少し具合が悪いくらいでは休めない』と出たそうです」。

酒井 春之 酒井 春之(12)
佐伯郡廿日市町中東(廿日市市)廿日市小8月7日たどり着いた己斐町で、廿日市町からの救援隊のトラックで運ばれる。母乙女が自宅で、黒焼きしたナンテンの葉を卵でこねてやけどに塗るなど懸命の手当てをするが、「左の胸にぬれ手拭(てぬぐ)いを当て、また静かに起こしたとたん、上半身が二、三度揺れて前につんのめった」(母の手記)まま死去。87歳になる母の思いを、二女幹代は「帰って来ただけでもよかった。ほかの親ごさんのことを考えると申し訳ないと言っています」。

定岡 宏治 定岡 宏治(ひろじ)(12)
広島市猿猴橋町(南区)荒神小8月6日父國人と母真寿子が捜すが、遺骨は不明。二中が配った分骨を受け取り、墓に納める(注・肖像画)旅館を営み、一緒に住んでいた祖父勝男(65)は町内から建物疎開作業に出て、13日死去。

佐原 正昭 佐原 正昭(12) 遺品と資料
二中寮。実家は広島市鷹匠町(中区本川町)佐伯郡・水内小8月6日自宅が焼失したため、父政夫が防空ごうで寝泊まりしながら捜すが、遺骨は不明。佐伯郡上水内村(湯来町)に疎開していた弟正和は「父は村に戻って来た後も、何日も広島に出ていました。同級生の親たちと学校から受け取った遺骨を分け合い、病死していた母の分と一緒にした墓をつくりました」。

鈴木 威男 鈴木 威男(たけお)(13)
広島市己斐町(西区)不明8月7日運ばれた自宅で7日夕、死去。




空 清司 空 清司(12)
広島市観音町(西区)に下宿。実家は佐伯郡大柿町小古江大古小8月8日二中寮から出たトラックで運ばれた佐伯郡平良村(廿日市市)で死去。一緒に育っためいの朝香は「本人から、能美島の生家に平良村にいるとの言づてがあり、家族全員が喜んだのですが…」。遺体は、めいの母が持たせていたがま口財布で確認。

髙木 幹治 髙木 幹治(13)
安佐郡安村上安(安佐南区)安小8月7日父勉が7日、作業現場跡で、黒焦げになった生徒たちの中から、本革ベルトに留め金具が付いたバックルで遺体を確認。弟晴邦は「両親の話では、6日は家から300メートル下った田んぼの曲がり角で自転車を止めて手を振ったそうです。バックルは前の晩、せがまれて父が譲った学生時代の記念の品でした」。

高田 文洋 高田 文洋(ふみひろ)(13)
広島市古田町高須(西区)の伯母宅。実家は賀茂郡志和堀村(東広島市)志和堀小8月7日本川に飛び込んで対岸へ上がり、目が見えなくなったところを、救援隊によって伯母宅へ運ばれる。姉チズヱは「7日高須に着いた母タカに『送った通知表は届いた?』『宗岡君(志和堀小出身で2学級)は?』などと言ったそうです」。8日、高須の公園で遺体を焼き、服とゲートルとともに持ち帰る。

高橋 成幸 高橋 成幸(しげゆき)(12) 遺品と資料
佐伯郡廿日市町桜尾(廿日市市)廿日市小8月7日父律郎と、三菱重工業広島機械製作所で被爆後、再び市内へ向かった崇徳中4年の兄信行が捜していた8日、遺体で戻る。兄は「作業現場の対岸、現在の中国新聞社辺りで7日、『熱い、熱い』と言っていた弟を小学校時代の友人が見つけました。セルロイドの中の定期券がにじんでおり、泳いでそこまで逃げたのでしょう」。

竹本 富雄 竹本 富雄(14)
佐伯郡大竹町(大竹市)大竹小8月6日父健一と母ヤヨコが向かうが、遺骨は不明。その年、二中から海軍兵学校に進んでいた兄英雄は「大竹へ帰って来た山下君(5学級)を見舞った両親が聞いた話では、引率の先生が本川へ避げるよう指示し、雁(がん)木で人の上に人が倒れるという状況で、弟は川へ入れず岸辺にしゃがみ込んだそうです。やがて生徒たちが流されていくのが見えた時、弟は先生のそばにいたとはっきり述べました」。

田中 敬次郎 田中 敬次郎(12)
広島市南観音町(西区)観音小8月8日母セツが7日、天満川の土手で「お母さん、生きとるよ」と返事をした二男を見つけ、救護兵の力を借りて連れ帰る。姉滋子は「ドクダミ草をせんじて飲ませると『元気になったら親孝行するよ』『先生、発射します。行きます』などと言って息を引き取りました」。

天畠 敏行 天畠(てんばた) 敏行(12)
安芸郡矢野町(安芸区)矢野小8月8日陸軍偕行社(中区八丁堀)にいるとの知らせを聞いた父清一が大八車で7日未明、連れ帰る。倉敷航空機吉島工場に動員されていた山中高女(現・広島大付属福山高)4年の姉智恵子は「うわ言は『日本は勝つのだ』と、そればかりでした。全身はずるずるで手のつめははがれ、見るに見られぬ状態でした」県立広島工業学校1年の兄正男(14)の遺骨は不明。同じ中島新町の建物疎開作業に動員されていた同校生徒は182人が死去。

堂免 政博(12)
安芸郡奥海田村(海田町)奥海田小8月8日本川に飛び込み、下流に泳いで上がったところを、修道中の息子を捜していた男性に救助されて皆実町の姉宅へ運ばれる。6日夜、父悟と荷車で迎えに行った県立第二高女5年の姉一枝は「戦闘帽の下はそったように髪がなく、『毒ガスは臭い』と言い、口から黒いものを吐き出しました。最期は『勝利の日まで』を歌いながら死にました」。

時森 健 時森 健(13)
広島市出汐町(南区)大河小8月6日父栄が作業現場跡近くで防空ずきんを見つけるが、遺骨は不明。89歳になった今年も慰霊祭に参列した母ミサヲは言う。「毎朝のように必ず『空襲があっても僕は一番早く逃げるから心配ない』と言っていたあの子が、親をおいて先に天国へ行ってしまいました。二中が配った分骨も、本人のものかどうか分からないので、私は受け取っていません」。

殿垣 則夫 殿垣 則夫(12)
広島市草津本町(西区)草津小8月7日6日午後8時ごろ、背中と顔の皮膚が垂れながらも自力で帰宅し、翌午後1時ごろ死去。兄昌雄は「3人兄弟の末っ子だった則夫は『兄二人が召集されているので、自分はどうしても無事で戻らなければいけない』と気力を振り絞って帰ってきたそうです。いつも親孝行したいと言っておりました」青果物配給統制組合の事務をしていた父喜代人(50)は25日死去。

死没者の氏名(満年齢)
1945年当時の住所出身小学校(当時は国民学校)死没日(実際の死没日が特定できない人もいるが、その場合は戸籍記載の死没日)被爆死状況45年末までに原爆で亡くなった家族=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、資料に基づく。年数は西暦。(敬称略)

内藤 青眺 内藤 青眺(せいちょう)(13)
広島市天満町(西区)第二国民学校(現・観音中)8月6日父徳松らが捜すが、遺骨は不明。疎開中の母に代わり、世話をしていた姉由子は「5日夜、砂糖を煮込んだシロップを添えたかき氷を作ると、待ちきれずにシロップが冷めないうちからかけて、『おいしい』とほおばっていたのが、元気な弟をみた最後でした」。

中川 雅博 中川 雅博(13)
広島市南観音町(西区)市立神戸中(現・葺合高)から転校8月6日母チヨが自宅でガラス片が突き刺さったにもかかわらず捜しに出るが、遺骨は不明。県立第二高女3年だった姉喜美子は「けがを押して7日に出た父は、苦しんでいる人たちのあまりのむごさに『雅博を見つけたら一刻も早く楽にしてやる』と言ったほどです」。神戸への空襲で自宅を再度焼失した6月、家族4人で伯母がいた広島へ転居していた。

中島 茂治 中島 茂治(しげじ)(12)
広島市材木町(中区中島町)中島小8月6日遺骨は不明。佐伯郡五日市町(佐伯区)の海岸に漂着した遺体が、引き取り手のない無縁仏として町内の寺に納められていたのを70年ごろ、叔母の藤堂佳子が知る。「供養していただいた寺は火災で焼け、姉の一家はすべて遺骨不明です」父亀次郎(42)、母ツル子(33)、妹幸子(8つ)との4人家族が全滅。

中西 善行 中西 善行(12)
広島市仁保町楠那(南区)楠那小8月6日遺骨は不明。当日は体調を崩し、母イクノが休むよう勧めたが、「お国のためだから」と出掛けたという。姉の長男で千葉県在住のおいの久保博文は「今年は家族5人で広島市の平和記念式典に参列し、県庁に勤めていて爆死した父と叔父らのめい福を祈りました」。

中本 一之 中本 一之(12)
安芸郡府中町府中小8月7日母信子らが7日、江波線の軌道敷きに並べられていた重傷者の中から、遺体で見つける。89歳になる母は「頭のそばに、茶わんに盛ったご飯とトマトが置いてありましたが、食べずに死んでいました。隣に寝ていた人の話では、先生から言われた『天皇陛下万歳』を唱えて、本川に飛び込み、満潮の川を泳いで渡ったそうです」県都市計画課勤務の父實(42)は建物疎開作業の指揮に出て被爆し、遺骨は不明。

西村 實吾 西村 實吾(12)
佐伯郡宮内村(廿日市市)宮内小8月6日父兼一らが8日、爆心1・4キロの住吉橋東詰めで見つけ、その場で棺おけを作り、乳母車に乗せて連れ帰る。84歳になる母フミエは「『僕は飛行機乗りになるから、20歳までしか生きられない』と申していましたが、12歳で逝ってしまい…。『静かだから』と、いつも自宅寺の仏像の横に座って宿題をするような子でした」。

浜内 茂樹 浜内 茂樹(12)
広島市観音町(西区)に下宿。実家は佐伯郡三高村(沖美町)三高小8月10日船で救援に向かった父伊三人が7日に見つけ、連れ帰った自宅で亡くなる。3学級の浜井泉男といとこ同士。



昆野 直文 昆野(ひの) 直文(13) 遺品と資料
二中寮。実家は安芸郡倉橋島村本浦(倉橋町)倉橋小8月6日遺骨は不明。宇品港から夕刻着いた定期船を通じ、広島の急変を知った父直人に続き、姉勝美らが7日未明に漁船で向かう。姉は「同じ倉橋の奥窪君(2学級)のお母さんに会い、作業現場跡に行くと、道より高い川土手に生徒たちのかばんが並べてありました。母が木綿の手ぬぐいで作ったものを開けて見ると、直文の弁当箱があり、それを仏壇に納めました」。

檜田 憲 檜田 憲(あきら)(12)
佐伯郡五日市町(佐伯区)津田小(佐伯郡佐伯町)8月6日遺骨は不明。父慶助と母ミヤコは、長男のつめと髪の毛を墓に納める。小学3年だった妹が受け継ぐ日記は、二中入学の4月4日をこうつづる。「曇後晴 起床六時三十分就床九時四十分(略)第四學級にぼくの名前と八幡の折免君のがあったのであんしんした。ぼくらの主任の先生は箕村と言ふ先生だった(略)定期けんを五日市えきへ取りにいった。かへりしなは得意だった」

平原 昌樹 平原 昌樹(15)
佐伯郡五日市町(佐伯区)不明8月6日父唯志が捜すが、遺骨は不明。いとこの紀代子は「両親から、昌樹さんがためていた1銭や5銭が詰まった缶を見せてもらったことがあります。『家を建ててあげる』と話していたそうです」。

平山 孝 平山 孝(13)
広島市宇品町(南区)宇品小8月6日父貞一と母安子が捜すが、遺骨は不明。本川土手で見つけた本人のものとみられる弁当箱と、兵隊が作業現場跡で火葬していた遺骨の一部を同級生の親たちと分け合い、持ち帰る。

廣畠 次郎 廣畠 次郎(13)
広島市仁保町青崎(南区)青崎小8月6日遺骨は不明。広島駅の裏で被爆後、捜して歩いた兄豊は「本川の土手で、弁当箱を入れたかばんと布団の生地で作った防空ずきんが見つかっただけで、しかたなくその灰を墓に納めました。後日、知人から明治橋(作業現場南の爆心1・3キロ)で6日に弟を見かけたと聞きました。今でも無念でたまりません」。

藤田 耕二 藤田 耕二(13)
広島市昭和町(中区)幟町小8月6日遺骨は不明。大洲町(南区大州)の中国配電に動員されていた比治山高女4年の姉多実子は「新大橋のたもとでひざを抱えていたのを見た同級生の親ごさんから声を掛けたが、返事はなかったと聞きました。動員作業から帰宅すると、たんすに寄りかかり、よくひざを抱えてました」姉和子(20)は袋町の県知事官舎で被爆し、8日死去。祖母ヤノ(80)は昭和町の自宅で下敷きとなり6日死去。

藤谷 耕司 藤谷 耕司(13)
佐伯郡大野村(大野町)大野小高等科8月6日両親らが金輪島なども捜すが、遺骨は不明。98歳になる母千代子に代わって、姉典子は「父が大野小の校長をしていましたので『師範学校へ進んで先生になる』と言っていたのに、高等科へ入ると兄の母校二中へ行きたいと…。通らなければよかったと思います」。

藤原 博 藤原 博(13)
広島市上柳町(中区上幟町)済美小8月6日遺骨は不明。その年春に二中を卒業し、日銀広島支店内に移っていた広島財務局(中区袋町)へ動員で向かう途中に被爆した兄節雄は「原爆投下の前日、寮住まいの同級生2人を家に招き、はらいっぱい食事をさせていました。生徒たちが似島に運ばれたという話は聞いたが、本人がいたかどうかは不明です」。

増井 貢 増井 貢(みつぎ)(13)
佐伯郡廿日市町大東(廿日市市)廿日市小8月6日小学4年だった弟勉は「母武子が2、3日後に遺体と真っ黒になった弁当箱を見つけたと聞いています」。



水谷 浩道 水谷 浩道(12)
広島市千田町1丁目(中区)千田小8月6日遺骨は不明。爆心2キロの広島工専(現・広島大)で被爆した1年生の姉年子が、重傷の父を疎開先の翠町に運んだ後の翌7日、作業現場跡に入る。「小学校から同級だった向山君(2学級)が『水谷君のお姉さん』と声を掛け、弟のことは『皆それぞれ逃げたから分からん』と火ぶくれになった体で教えてくれました。そのうち兵隊さんが来て向山君をトラックで運びました」。

水戸 宏 水戸 宏(13)
広島市段原東浦町(南区)段原小8月6日父荘造と母シヅ子が捜すが、遺骨は不明。当日、モモを食べたいという三男のために佐伯郡井口村(西区)へ朝早く出掛けた母にあてた書き置きが絶筆となる。「近所の若奥様から『おはぎ』を頂いたので、水屋の中に入れておくから、帰ったら食べてください」

三宅 幸夫 三宅 幸夫(12)
広島市上天満町(西区)天満小8月8日両親が荷物を疎開させていた山手町(西区)にいるのを知った家族4人が7日、避難先から駆けつける。「このやけどは、きれいに治るだろうか」と何度も尋ねて亡くなる。広島市女3年だった姉辰江は「中学に入り、ゲートルを巻いて外出するのが大人の仲間入りと思っていたのでしょう。毎朝うれしそうに出かけて行く姿は、顧みればふびんでなりません」西部第二部隊にいた兄勝(22)は、基町の兵舎で爆死。

山内 伍城 山内 伍城(あつき)(13)
二中寮。実家は山県郡吉坂村阿坂(豊平町)阿坂小8月8日遺骨は不明。父超然が8日、立て札にあった死没者名を確認。楠木町の田村製針工場に動員されていた安芸高女4年の姉宏子は「体調を崩したため弟を連れて3日から帰っていましたが、弟は『明日は授業があるから』と5日に戻って行きました」。

山口 盛 山口 盛久(12)
安佐郡祗園町(安佐南区)東京・青山学院中学部から転校8月10日6日午後4時ごろ、母子4人で疎開していた叔父宅に戻る。崇徳中3年だった兄義信は「地下足袋も焼けたらしく、はだしで帰って来ました。死の直前まで意識はしっかりしており、『仏様の所に行くよ』が最期の言葉でした」。後に、東京目黒区の実家の石灯ろうで、広島へ疎開したくないと記した走り書きが見つかる。二中慰霊碑には「第二学年」として名前が刻まれている。

山田 敏夫 山田 敏夫(13)
広島市広瀬元町(中区)広瀬小8月6日遺骨は不明。広島市女を卒業した後も西観音町1丁目の大東亜食料興業に動員されていた姉綾子は「弟はクギを踏んだために靴が履けず、げたを履いて出ました。かなわぬことですが、今も姉や弟を見つけたいと思います。遺骨がないのというのは心が安らぎません」母きくえ(45)は自宅で被爆し、9月9日死去。姉節子(24)と久子(22)の遺骨は不明。祖父仁忠治(76)は西引御堂町(中区広瀬町)で6日爆死。

 
4学級詳細不明

  大久保隆夫
  片山文夫
  川崎 齊
  西澤益巳
  水永龍男
  望月 誠
  山本泰司


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