穐田(あきた) 悟(13)
広島市平塚町(中区)▼竹屋小▼8月6日▼自宅で被爆した母キミヨが捜しに向かうが、遺骨は不明。8日見つけたバックルを墓に納める。双三郡に縁故疎開していた小学5年の妹幸子は「当日は、行きたくないそぶりを見せていたと、母は悔やんでいましたが、残った私と妹には原爆のことはあまり話そうとしませんでした」▼爆心300メートルに職場があった父節造(45)と、三篠本町の工場へ動員されていた安田高女3年の姉節子(15)の遺骨は不明。
飯澤 清徳(12)
広島市東白島町(中区)▼済美小▼8月6日▼母クラが捜すが、遺骨は不明▼陸軍主計大佐だった父清雄(53)は、爆心790メートルの中国軍管区司令部で爆死。
池田 宏吉(ひろきち)(12)
広島市猫屋町(中区)に下宿。疎開先は山県郡筒賀村▼幟町小▼8月6日▼父寛作が筒賀村出身の3学級の佐々木敏の母とともに捜すが、遺骨は不明。作業現場跡に並べてあった弁当箱の中から、本人のものを持ち帰り、墓に納める。姉董子は「幼いころからわがままを言わず、神風特別攻撃隊にあこがれていました。二中の慰霊碑に参ると、刻んである名前を必ずさすってやります」。
大瀬戸 健美(13)
広島市牛田町(東区)▼東京都立六中(現・新宿高)から転校▼8月6日▼父健雄が8日、学校で遺骨を受け取る。小学1年だった弟武治は「名前を彫り込んでいた弁当箱と、防空ずきんも持って帰りました」と話す。逓信省(現・郵政省)勤務の父の転任に伴い、世田谷区から家族5人で転居していた。
大成 正之(12)
広島市横川町2丁目(西区)▼三篠小▼8月6日▼母昌子らが救護所となった己斐小、似島などを捜すが、遺骨は不明▼保険会社勤務の父一企(47)は町内からの建物疎開作業に出て遺骨は不明。横川町の住民は爆心900メートルの小網町一帯への出動を命じられて
いた。
大野木 隆(13)
佐伯郡五日市町海老塩浜(佐伯区)▼五日市小▼8月6日▼遺骨は不明。16歳だった姉英枝は「役場勤めの父が応召中で千葉にいたため、7日から動員先の町内の工場を休んで母と一緒に捜して回りましたが、弟が新大橋のそばで整列してた以降のことは何一つ分か
りませんでした」。
岡田 彰久(12)
佐伯郡小方村(大竹市)▼小方小▼8月8日▼自力で己斐町近くまで逃げたところを、小網町一帯での建物疎開作業に動員されていた小方村義勇隊員の救援に駆けつけたトラックで自宅へ運ばれ、8日午前7時ごろ死去。小学5年だった弟穆は「兄が『手を握ってくれ』と言うのでつかむと、ぬるぬるして皮がむけました。『二人分の親孝行をしてくれ』との言葉に、涙があふれました」。
尾首 寛(ゆたか)(14)
広島市打越町(西区)▼神崎小▼8月6日▼遺骨は不明。山県郡に学童疎開していた小学3年の妹玉江は「制服の上着に付けていた名札を同級生の親が見つけてくださり、母朝子が受け取ったそうです」。
折免(おりめん) 滋(13)
佐伯郡八幡村寺田(佐伯区)▼八幡小▼8月6日▼母シゲ子が9日朝、本川土手で兵隊が火葬した遺骨と、名札の切れ端などを見つける。小学4年だった弟昭雄は「白骨となった腹の下には、真っ黒になった弁当箱があったそうです。父が召集され、兄が海軍兵学校に入った後は、母と滋が中心となって竹やぶを開墾し、最初にとれた小麦や大豆を詰めた弁当でした」。
是角 春登(13)
広島市横川町(西区)の伯母宅。実家は山県郡本地村(千代田町)▼本地小▼8月6日▼遺骨は不明。小学4年だった妹敏子は「両親は13日まで市内で捜し続け、死没者名簿に記載されていた兄の遺骨がある場所に行くと、間違えて持ち帰られていたそうです」と言う。保存する兄の手帳には「故里(ふるさと)より うれしきたより 父母ノふみ」なとど、親元を離れた下宿生活を詠んだ歌が残る。
権現 博文(13)
賀茂郡西条町(東広島市)▼寺西小▼8月6日▼父宅次が7日、自転車で向かったのに続き、母と姉が8日列車で捜しに行くが、遺骨は不明。兄卓三は「前の晩に桃を食べて下痢気味だったので、母が休みんさいと言うと、『お国のためだから少し具合が悪いくらいでは休めない』と出たそうです」。
酒井 春之(12)
佐伯郡廿日市町中東(廿日市市)▼廿日市小▼8月7日▼たどり着いた己斐町で、廿日市町からの救援隊のトラックで運ばれる。母乙女が自宅で、黒焼きしたナンテンの葉を卵でこねてやけどに塗るなど懸命の手当てをするが、「左の胸にぬれ手拭(てぬぐ)いを当て、また静かに起こしたとたん、上半身が二、三度揺れて前につんのめった」(母の手記)まま死去。87歳になる母の思いを、二女幹代は「帰って来ただけでもよかった。ほかの親ごさんのことを考えると申し訳ないと言っています」。
定岡 宏治(ひろじ)(12)
広島市猿猴橋町(南区)▼荒神小▼8月6日▼父國人と母真寿子が捜すが、遺骨は不明。二中が配った分骨を受け取り、墓に納める(注・肖像画)▼旅館を営み、一緒に住んでいた祖父勝男(65)は町内から建物疎開作業に出て、13日死去。
佐原 正昭(12) 遺品と資料
二中寮。実家は広島市鷹匠町(中区本川町)▼佐伯郡・水内小▼8月6日▼自宅が焼失したため、父政夫が防空ごうで寝泊まりしながら捜すが、遺骨は不明。佐伯郡上水内村(湯来町)に疎開していた弟正和は「父は村に戻って来た後も、何日も広島に出ていました。同級生の親たちと学校から受け取った遺骨を分け合い、病死していた母の分と一緒にした墓をつくりました」。
鈴木 威男(たけお)(13)
広島市己斐町(西区)▼不明▼8月7日▼運ばれた自宅で7日夕、死去。
空 清司(12)
広島市観音町(西区)に下宿。実家は佐伯郡大柿町小古江▼大古小▼8月8日▼二中寮から出たトラックで運ばれた佐伯郡平良村(廿日市市)で死去。一緒に育っためいの朝香は「本人から、能美島の生家に平良村にいるとの言づてがあり、家族全員が喜んだのですが…」。遺体は、めいの母が持たせていたがま口財布で確認。
髙木 幹治(13)
安佐郡安村上安(安佐南区)▼安小▼8月7日▼父勉が7日、作業現場跡で、黒焦げになった生徒たちの中から、本革ベルトに留め金具が付いたバックルで遺体を確認。弟晴邦は「両親の話では、6日は家から300メートル下った田んぼの曲がり角で自転車を止めて手を振ったそうです。バックルは前の晩、せがまれて父が譲った学生時代の記念の品でした」。
高田 文洋(ふみひろ)(13)
広島市古田町高須(西区)の伯母宅。実家は賀茂郡志和堀村(東広島市)▼志和堀小▼8月7日▼本川に飛び込んで対岸へ上がり、目が見えなくなったところを、救援隊によって伯母宅へ運ばれる。姉チズヱは「7日高須に着いた母タカに『送った通知表は届いた?』『宗岡君(志和堀小出身で2学級)は?』などと言ったそうです」。8日、高須の公園で遺体を焼き、服とゲートルとともに持ち帰る。
高橋 成幸(しげゆき)(12) 遺品と資料
佐伯郡廿日市町桜尾(廿日市市)▼廿日市小▼8月7日▼父律郎と、三菱重工業広島機械製作所で被爆後、再び市内へ向かった崇徳中4年の兄信行が捜していた8日、遺体で戻る。兄は「作業現場の対岸、現在の中国新聞社辺りで7日、『熱い、熱い』と言っていた弟を小学校時代の友人が見つけました。セルロイドの中の定期券がにじんでおり、泳いでそこまで逃げたのでしょう」。
竹本 富雄(14)
佐伯郡大竹町(大竹市)▼大竹小▼8月6日▼父健一と母ヤヨコが向かうが、遺骨は不明。その年、二中から海軍兵学校に進んでいた兄英雄は「大竹へ帰って来た山下君(5学級)を見舞った両親が聞いた話では、引率の先生が本川へ避げるよう指示し、雁(がん)木で人の上に人が倒れるという状況で、弟は川へ入れず岸辺にしゃがみ込んだそうです。やがて生徒たちが流されていくのが見えた時、弟は先生のそばにいたとはっきり述べました」。
田中 敬次郎(12)
広島市南観音町(西区)▼観音小▼8月8日▼母セツが7日、天満川の土手で「お母さん、生きとるよ」と返事をした二男を見つけ、救護兵の力を借りて連れ帰る。姉滋子は「ドクダミ草をせんじて飲ませると『元気になったら親孝行するよ』『先生、発射します。行きます』などと言って息を引き取りました」。
天畠(てんばた) 敏行(12)
安芸郡矢野町(安芸区)▼矢野小▼8月8日▼陸軍偕行社(中区八丁堀)にいるとの知らせを聞いた父清一が大八車で7日未明、連れ帰る。倉敷航空機吉島工場に動員されていた山中高女(現・広島大付属福山高)4年の姉智恵子は「うわ言は『日本は勝つのだ』と、そればかりでした。全身はずるずるで手のつめははがれ、見るに見られぬ状態でした」▼県立広島工業学校1年の兄正男(14)の遺骨は不明。同じ中島新町の建物疎開作業に動員されていた同校生徒は182人が死去。
堂免 政博(12)
安芸郡奥海田村(海田町)▼奥海田小▼8月8日▼本川に飛び込み、下流に泳いで上がったところを、修道中の息子を捜していた男性に救助されて皆実町の姉宅へ運ばれる。6日夜、父悟と荷車で迎えに行った県立第二高女5年の姉一枝は「戦闘帽の下はそったように髪がなく、『毒ガスは臭い』と言い、口から黒いものを吐き出しました。最期は『勝利の日まで』を歌いながら死にました」。
時森 健(13)
広島市出汐町(南区)▼大河小▼8月6日▼父栄が作業現場跡近くで防空ずきんを見つけるが、遺骨は不明。89歳になった今年も慰霊祭に参列した母ミサヲは言う。「毎朝のように必ず『空襲があっても僕は一番早く逃げるから心配ない』と言っていたあの子が、親をおいて先に天国へ行ってしまいました。二中が配った分骨も、本人のものかどうか分からないので、私は受け取っていません」。
殿垣 則夫(12)
広島市草津本町(西区)▼草津小▼8月7日▼6日午後8時ごろ、背中と顔の皮膚が垂れながらも自力で帰宅し、翌午後1時ごろ死去。兄昌雄は「3人兄弟の末っ子だった則夫は『兄二人が召集されているので、自分はどうしても無事で戻らなければいけない』と気力を振り絞って帰ってきたそうです。いつも親孝行したいと言っておりました」▼青果物配給統制組合の事務をしていた父喜代人(50)は25日死去。
|
|
死没者の氏名(満年齢)
1945年当時の住所▼出身小学校(当時は国民学校)▼死没日(実際の死没日が特定できない人もいるが、その場合は戸籍記載の死没日)▼被爆死状況▼45年末までに原爆で亡くなった家族=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、資料に基づく。年数は西暦。(敬称略) |
|