中国新聞社

99/11/17

ヒロシマの記録-遺影は語る  広島二中


死没者名簿 1年5学級


池田 郁夫 池田 郁夫(12)
安佐郡緑井村(安佐南区)緑井小8月6日父早人が7日、作業現場の瀬川倉庫跡近くでうつぶせに死んでいるのを、母よし子が着物の帯で縫った肩掛けのかばんで確認。90歳になる母は「あの日朝、台所に座って『今日は行きたくない』と言ったのが今も胸に突き刺さっています。先生から君たちも銃後を守らなければならないと言われ、動員作業や、家では田の草取り、薪の供出と、本当によく働く子でした」。

伊藤 汪 伊藤 汪(ひろし)(13)
広島市南竹屋町(中区)佐伯郡・平良小8月6日祖父政太郎が倒壊した家屋からはい出して捜すが、遺骨は不明。一緒に暮らしていた当時、小学2年のいとこ古川徳子は「あの日の朝はいつものように、二人で声を合わせて『よーい、どん』と家を走って出ました」。両親たちがいた朝鮮半島から戻り、二中進学で、祖父らと南竹屋町に移り住んだ。

畝 悦雄 畝(うね) 悦雄(12)
安芸郡矢野町(安芸区)矢野小8月8日遺骨は不明。似島に運ばれていたのを4学級の天畠敏行の父が見つけ、連絡を受けた父正登が8日夕に向かうが、既に火葬されていた。小学1年だった妹美恵子は「父が収容されていた女性から聞いた話では、両親の名前を呼んでいた声が、だんだん小さくなり、8日昼すぎに死んだそうです。天畠さんが持ち帰った革のベルトが形見となりました」。

沖本 一之 沖本 一之(12)
安佐郡安村上安(安佐南区)安小8月7日父庫夫が、長男の遺体を大八車で連れ帰る。弟聖は「どなたかが名札を見て知らせてくれたそうです」。



梶山 幹雄 梶山 幹雄(13)
広島市庚午町(西区)舟入小8月7日本川の土手で6日、救助されて船で草津小に運ばれた後、自宅に向かったらしい。応召中の父喜一が7日、自宅近くの路上で遺体を確認する。幼子たちを連れて島根県に疎開し、92歳になる母キノヨに代わって、妹幹子は「兄は『勉強を続けたい』と、疎開を勧める母を説得して一人で残っていました」。

桂 恵嗣 桂 恵嗣(けいじ)(13)
広島市三篠本町3丁目(西区)大芝小8月6日遺骨は不明。姉ミチヱが芸備銀行(現・広島銀行)本店に張り出されていた死没者名簿に「桂 男 14歳 一中校庭」とあるのを見つけ、広島一中(現・国泰寺高)の校庭で、ひざ元ほどの高さに積まれていた遺骨の山から骨を受け、紙に包んで帰る。姉は「亡き母は、砂糖みつで固めた米菓子を帰ってから食べなさいと送り出したのをいつも悔やんでいました」。

河崎 賢仁(けんじん)(13)
広島市福島中町(西区)天満小8月10日父盛一が6日、本川土手で倒れていたのを見つける。倒壊していた自宅の代わりに運んだ町内の防空ごうで死去。弟史朗は「迎えに行った父の呼び声に、聞き取れないほどの声で返事をしたそうです」。

神名 禎二(12)
広島市翠町(南区)の兄宅。実家は安佐郡鈴張村(安佐北区) 鈴張小8月6日父寿一が似島でベルトのバックルを見つける が、遺骨は不明。

北本 邦彦 北本 邦彦(13)※注
安芸郡坂村(坂町)横浜横浜小8月9日本川で陸軍船舶部隊に救助され、金輪島に収容されているのを見つけて坂村の知人が7日、自宅へ運ぶ。。「『ピカッと光ったら爆風で木やトタン板が飛んできた。飛び込んだ川は湯のように熱かった。金輪島でむすびを食べ、おいしかった』などと申し、意識がもうろうとしながら、大きな声で校歌を歌いました。臨終をみとることができたのは、幸せだと思います」。87歳の母マサヨは淡々と話した。

吉川 壽 吉川(きっかわ) 壽(13)
佐伯郡厳島町(宮島町)厳島小8月7日己斐駅近くの川土手で6日、同学級の多尾宏生を背負った多尾の父に会い、己斐町の多尾宅について行く。駅に張り出された伝言を見た知人の知らせで7日夕、駆け付けた母カズらにみとられて死去。小学1年だった弟登は「多尾さんが7日朝に亡くなるまで、『元気になったら、米国にかたきを討とう』と言っていたそうです」。

木戸 俊夫 木戸 俊夫(13)
安佐郡口田村(安佐北区)口田小8月8日父浜留が7日、リヤカーで連れ帰り、自宅で亡くなる。広島鉄道局管理部で被爆して戻った姉幸子は「最期は大きな声で軍歌を歌ったり、友達の名前を呼んだりしていました。6日朝、弟は家を先に出ながら引き返して来たので、どうしたのと尋ねたら、にっこり笑って『まあ、いいわ』と駆けて行きました」と言う。

木本 暢茂 木本 暢茂(のぶしげ)(12)
広島市草津南町(西区)草津小8月8日自力で6日夕、帰宅。己斐小講堂で被爆して戻った陸軍糧秣支廠勤務の姉澄子は「木本さんの息子さんが帰っていますよ、と言われて親も気づくほどでした。顔のやけどに油を塗ってやると、『氷を、アイスキャンディーを買って来て』と哀願しました。クギが、腰のベルトにぶらさげていた英語の辞書の表から裏表紙まで突き刺さっていました」。

小泉 廣史 小泉 廣史(13)
佐伯郡厳島町(宮島町)厳島小高等科8月6日原爆ドーム前を流れる元安川の浅瀬に倒れているのを町内の人が見つけ、父運雄(かずお)が9日、遺体を連れ帰る。



河野 幹雄 河野 幹雄(13)
安佐郡亀山村(安佐北区)亀西小8月9日江波小に生きて収容されているとの知らせを受け、母キヨコと小学5年だった妹厚子らが9日深夜、大八車を引いて向かう。妹は「着いた時は朝になり、一足違いでした。兄の目から耳に流れていた涙の跡は白く、塩がついたようになっていました。係の人から、苦もんの中で教育勅語を唱えて最期を迎えたと聞き、立派だったとしか言えません」。

幸本 方俊(まさとし)(13)
安佐郡安村高取(安佐南区)安小8月7日父俊一と母清子が捜すが、遺骨は不明。

古河 俊彦 古河(こかわ) 俊彦(13)
広島市草津南町(西区)天満小8月10日父芳人が12日、救護所が設けられた神崎小で、遺骨と名札の切れ端や当日履いて出た軍靴を引き取る。命日は被爆死した母と同じ日にする母八重子(39)は西大工町(中区榎町)の自宅が立ち退きとなったため家族で移った草津南町の義勇隊として、爆心900メートルの小網町一帯の建物疎開作業に動員され、10日死去。

小松 勇美 小松 勇美(12)
二中寮。実家は佐伯郡高田村(能美町)高田小8月10日佐伯郡平良村(廿日市市)に収容されているとの知らせを受けた母ハツコらが持ち舟で向かい、ズボンに縫い付けていた布切れで確認する。自宅で10日午前5時死去。小学1年だった弟善槻は「兄は『水が飲みたい』と繰り返して死んだそうです」。

櫻井 太蔵 櫻井 太蔵(たいぞう)(13)
安佐郡祗園町長束向地(西区大芝3丁目)長束小8月6日父秀一と母チサコが7日、新大橋のたもとで遺体を見つける。祇園高女(現・祗園高)4年だった姉恵子は「弟は、大きな石の下敷きになっていたそうです」県衛生課職員の姉逸子(19)は爆心800メートルの県立広島病院(中区加古町)近くで被爆し、30日死去。

櫻美 一郎 櫻美(さくらび) 一郎(12)
広島市南観音町(西区)の叔父宅。実家は佐伯郡原村(廿日市 市)原小8月11日父継信と母久子が観音町付近で見つけ、運んだ吉島本町の救護所で11日午前7時死去。小学3年だった弟二郎は「兄は5日、家に戻り、『トマトが食べたい』と、まだ熟れていないトマトをもいで食べていたのを覚えています」。

下野 義樹 下野 義樹(12)
広島市南観音町(西区)観音小8月9日父政が6日夜、作業現場跡で見つけ、背負って連れ帰る。88歳になる母ヨシエは「7日朝、『水みつが食べたい』と申しますので仏壇に供えてあったのを出すと、のども焼けており食べられません。畳のままで運んだ救護所で『班長だから学校に届けを出して』と言って1時間後に世を去りました。何度も『母さん、僕は兵隊さんに変わりない。万歳』と一生懸命に話していました」。

洲上 義郎 洲上(すのうえ) 義郎(12)
佐伯郡玖波町(大竹市)玖波小8月6日遺骨は不明。父豊 一が漁船で7日未明、作業現場跡に着いて捜し、玖波町から通う6学級の福本関信を見つけ連れ帰るが、船上で死去。小学5年だった妹高代は「両親が、大竹町の自宅に戻った同じ学級の山下明治君の母から聞いた話では、本川を泳いで渡り、己斐に向かって一緒に電車道を歩いている途中に兄とはぐれたそうです。12歳で死んだ兄のことを思うと、元気な間は慰霊祭に毎年参るつもりです」。

炭本 孝 炭本 孝(12)
広島市舟入本町(中区)神崎小8月6日自宅の下敷きになった母末子と、宮島での動員作業から戻った修道中の兄弘幸が捜すが遺骨は不明。93歳になる母に代わって、兄の妻美佐子は「見つけた二中の帽子のバッジと、孝さんの粘土細工を墓に納めたそうです。夫は生前、原爆のことは話しませんでした」父幸一(46)は勤務先の爆心830メートルの中国配電(現・中国電力)大手町変電所で6日死 去。

関谷 清(13)
広島市白島中町(中区)不明8月6日父秀夫の広島鉄道局への転勤に伴い4月、東京から移っていた。6日朝一緒にいた叔母の真野良は「清を見送ったと思ったら、ピカッと来ました。兄は『言わんといてくれ』と触れるのを嫌がりましたが、遺骨は見つけたようです」。

【お断り】北本 邦彦さんの邦はです。
死没者の氏名(満年齢)
1945年当時の住所出身小学校(当時は国民学校)死没日(実際の死没日が特定できない人もいるが、その場合は戸籍記載の死没日)被爆死状況45年末までに原爆で亡くなった家族=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、資料に基づく。年数は西暦。(敬称略)

多尾 宏生 多尾 宏生(12)
広島市己斐町(西区)己斐小8月7日天満川そばで被爆した父義太が6日夕、本川橋近くの土手で倒れていたのを見つける。確認の手掛かりは、戦陣訓などの教本を納め、腰に付けていた父手づくりの袋。途中で見つけた同学級の吉川壽も自宅へ連れ帰る。二中4年だった兄義生は「弟は力尽きて流されていく人たちに『南無阿弥陀仏』と唱えたと言います。当時の中学生は、国のお役に立つといった考えと、いずれ死ぬんだとの思いでした」。

高橋 協一郎 高橋 協一郎(12)
不明不明8月6日本川土手で遺体が確認されたという。岩手県に住む叔母キミは「同級生と並んで倒れていて顔では判別できず、焼け焦げた作業着の名札でかろうじて分かったそうです」。銀行員だった父信二郎が広島市内の軍需工場に勤務することになり、東京から家族4人で転居していた。

谷口 成夫(13)
広島市打越町(西区)県立広島師範付属小(現・広島大付東雲 小)8月6日遺骨は不明軍人の父正夫(55)は広島駅北側の東 練兵場で被爆し、8日死去。

東久保(とうくぼ) 勇(12)
広島市江波町(中区)江波小8月9日父政一らが、作業現 場下流の住吉橋東詰めの救護所テントに収容されているとの知らせを受けて8日、自宅近くの防空ごうに運ぶ。小学2年だった弟正則は「虫の息で帰ってきた兄は、うす暗い防空ごうの中で、一言も口にできず死にました」。

登地 博 登地 博(13)
広島市尾長町山根(東区)に下宿。実家は佐伯郡沖村(沖美町)沖小8月6日出産を控えていた母マサコらが船で向かい捜す が、遺骨は不明。三菱重工業第20製作所(安佐南区)に徴用されていた姉ミチヱは「5日に弟と会うと、英語の辞書を手にして喜んでいました。本当に物がない時代で、ゴムと生地の間がすぐ破れるようなズックを履いて、尾長町から学校まで歩いていたのを思い出すと今も涙が出ます」。

中川 重之 中川 重之(12)
広島市平野町(中区)竹屋小8月9日母キクミが9日朝、 水主町(中区加古町)にあった与楽園の池のほとりに座っているのを見つけ、通り掛かったトラックに乗せる。佐伯郡内の救護所で死去。義姉富江は「母が、見覚えのある配給の肌着で確認しなればならないほど変わり果てた姿だったそうです。ほかの子どもを捜すため、息子の臨終をみとってやれなかったことを悔いていました」。

西村 伸生 西村 伸生(12)
広島市出汐町(南区)大河小8月6日遺骨は不明。母シカ ノの元に9日、似島で見つかった下着の切れ端が届けられる。かろうじて「西村伸…」と読み取れたという。金輪島の陸軍作業所に動員されていた県立第二高女3年の姉昭子は「弟は運ばれた似島の救護所で『二中の1年生で、住所は出汐町です』と言い残したそうです」。

西本 朝彦 西本 朝彦(12)
広島市古田町古江(西区)東京・高井戸小8月7日2学級の谷口勲と土橋電停前の防空ごうにいたのを、谷口の父と兄が己斐町の自宅へ運ぶ。連絡を受けた母マサエが駆け付けた時は既に亡くなっていた。88歳になる母は「普段と違って、あの日に限り『兵隊に行くのと同じ。怖いことはない』と、皆に丁寧なあいさつをして出掛けました。私も姿が見えなくなるまで見送りました」。父の応召で東京から疎開を兼ねて転居していた。

野間 侃二 野間 侃二(かんじ)(13)
広島市大手町8丁目(中区)済美小8月6日遺骨は不明。 古田町の広島航空に動員されていた県立第一高女3年の姉偉子は「安否を気遣いながら、捜せる状態ではありませんでした」。義兄が9日、中国配電本店(中区小町)前で死没者欄に名前があるのを見つけ、遺体を焼いた跡の灰を納める弁護士の父伝吉(59)は爆心1・6キロの鶴見橋一帯での建物疎開作業に出て12日死去。母芳子(35)の遺骨は不明。姉和子(18)は9月2日死去。

堀尾 英治 堀尾 英治(13) 遺品と資料
佐伯郡五日市町海老塩浜(佐伯区)五日市小8月10日本川につかっていたところを、6学級の佐井田吉見の母に助けられ、住吉橋のたもとに引き揚げられる。知らせを受けた母親がリヤカーで連れ帰り、自宅で10日午前3時ごろ死去。天満町で被爆した99歳の 父一夫に代わって、妹祐子は「両親が『英治!英治!』と呼び掛けると、兄は『夢を見る、夢を見る』と言いながら死んだそうです。

本田恒次郎 本田恒次郎(12)
佐伯郡地御前村(廿日市市)の疎開先。実家は広島市八丁堀(中区)幟 町小8月6日遺骨は不明。いとこの貴は「5人家族のうち、疎 開していなかった父と兄だけが助かりました」母ユキノ(38)は爆 心700メートルの自宅和菓子屋に通う途中に被爆し、広島逓信病院で11日死去。広島市女2年の姉貞子(14)は、新橋から県庁にかけての建物疎開作業に動員され、遺骨は不明。

正木 具視 正木 具視(ともみ)(12)
広島市尾長町山根(東区)尾長小8月9日父正男と母貞子 らが7日、爆心1・5キロの広島赤十字病院の玄関前で見つける。岩国市に縁故疎開していた弟壽志は「かろうじて焼け残った名札で判別できたそうです。母に『アイスキャンディー、ぜんざいを食べたい』と言って、学校で習ったことを口ずさみながら死んだそうです」。

増田 弘宗 増田 弘宗(13)
広島市錦町(中区広瀬町)天満小8月6日女子てい身隊で 動員されていた広島陸軍兵器補給廠(南区霞町)で被爆した姉照代 が捜すが、遺骨は不明。姉は「弟は『海軍兵学校へ進みたい』と、夜遅くまで地下室で勉強していました」父巖(49)は爆心800メートルの自宅で爆死。母モト(40)は建物疎開作業に出た爆心1・1キロの広瀬小近くで被爆し、9日死去。広島第一陸軍病院勤務の姉利江(19)の遺骨は不明。

益田 正之 益田 正之(13)
安佐郡緑井村(安佐南区)可部小8月6日建物疎開作業に 向かう途中に被爆した父巖に代わり、祖父静馬が高田郡から捜しに 向かうが、遺骨は不明。戦後、父は二中から手のひらに乗るほどの 分骨を受け取る。小学5年だった弟信は「兄は広島陸軍幼年学校に 合格し、『新学期になったら転校できるんだ』と喜んでいました 」。

松岡 敏雄 松岡 敏雄(13)
広島市松原町(南区)荒神小8月6日遺骨は不明。山陽中 4年だった兄義彦が、本川土手に並べてあった弁当箱を見つけ、持ち帰る。兄は「5日夜、2人で安芸郡中山村(東区)の疎開先に荷物を運んで戻る途中に、たくさんの流れ星を見ました。弟は『あっ、また流れた』と喜んでいました」。

三戸 一則(13)
安芸郡大屋村(呉市天応町)天応小8月8日父保が自転車 で向かい、7日未明、長男の声がした作業現場跡で見つける。小学 3年だった弟保二は「両親や祖母、弟らに別れのあいさつをして 『君が代』を歌い、『お先に』と死にました。特攻隊員となって国 のために命をささげると言っていた兄は、恩師の話では本好きだっ たそうです」。

緑 茂 緑 茂(12)
広島市材木町(中区中島町)中島小8月6日広島真宗学寮 (西区南観音2丁目)へ同級生数人と動員されていた二中3年の兄保和が7日夕、本川土手で火葬されていた茂の遺骨を納める。兄は「弟が持っていた私の電車の定期券で確認することができました」母フミエ(36)と弟俊昭(2つ)は自宅で爆死。佐伯郡廿日市町(廿日 市市)に疎開していた廿日市小4年の妹由美子(9つ)と1年の千鶴子 (6つ)は5日に帰宅したが、遺骨は不明。

三村健次郎 三村健次郎(12)
広島市立町(中区)袋町小8月6日遺骨は不明。双三郡神 杉村(三次市)に学童疎開し、小学3年だった妹貞子は「兄から 『勉強に励みなさい。1歳の妹が大きくなっている』と疎開先に手 紙がありました」父儀一(45)は研屋町(中区紙屋町1丁 目)で、母秋子(35)と弟の孝(5つ)、妹の節子(1つ)は自宅で爆死。市 立造船工業(現・市商業高)2年の兄義明(13)と弟の袋町小4年悦 治(9つ)と2年吉雄(7つ)の遺骨は不明。

山下 明治 妙見 義弘(13)
広島市仁保町(南区)青崎小8月9日三菱重工業広島造船 所で動員されていた松本工業学校(44年、軍の要請により商業学校から改校。現・瀬戸内高)3年の兄法彦らが8日、白神社(中区中町)で見つけ、手づくりの荷車で連れ帰る。兄は「意識はしっかりしており、数人で本川を泳ぎ下流の広島刑務所(爆心1・8キロ)辺りで上がったと言います。母が病気がちで、幼いころからしっかりした弟でした」。

山下 明治(13)
佐伯郡大竹町(大竹市)大竹小8月9日軍のトラックで自 宅近くの農家まで運ばれているのを6日夕、父為美と小学5年の弟 宏が聞きつけて連れ帰る。自宅で、被爆直後の様子を細かに語り、 母ハギ子が「鹿児島のおじいさんには何と言おうかね」と問い掛けると、「立派に」と答えて息を引き取る。弟は「兄の遺影や成績表などの遺品は、母が死んだ4年前に一緒にひつぎに入れました。母の希望でした」。

山本 卓 山本 卓(たかし)(12)
広島市福島町(西区)観音小8月8日佐伯郡廿日市町(廿 日市市)に疎開していた母シゲコが9日、舟入地区の救護所で前日に亡くなったのを確認する。82歳になる母に代わって、妹千草は「救護所にいた女の人が、隣で寝ていた中学生が8日に『お父ちゃん、チコちゃん』と言って息を引き取ったと伝えたそうです。『チコちゃん』は私の呼び名なので兄に間違いないと確信し、焼かれていた大勢の遺体の中から遺骨をもらったそうです」。

 
5学級詳細不明

 小原 拓治
 久保田 英樹
 炭田 佳彦
 瀬戸 賢裕
 出口 郁夫
 藤野 昌
 松本 直弘


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