核兵器廃絶の訴えを聞いてもらえるまでは、しつこく、しつこく、繰り返すしかない。
爆心地から一・二キロの神崎小学校(中区舟入中町)で被爆した。父と姉と弟は、原爆につぶされた舟入本町の自宅の下敷きになり、火にじわじわ焼かれて亡くなった。その日に生まれた妹も、ほどなくして命尽きた。
「あの日のことを言わずにおくものか」。家族を殺された怨念(おんねん)で、「はだしのゲン」をはじめ、作品を描き続けてきた。
二十一世紀に入っても、人間は進歩していない。核兵器は拡散しつつあり、核兵器の脅威は膨らむばかりだ。「はかり知れない破壊力があるこんなものをつくって喜んでいるのか」。インド、パキスタンの核開発競争が、腹立たしくてならない。
人間同士が話し合う場であるはずの国連が、米国に牛耳られている現状に無力感を覚えることもある。でも、こんな現実だからこそ、なおさら世界の国々が手を握り合える状況を生み出さなければならない。その見本を示すのが、日本であり、ヒロシマである。
平和ミッションを通じて、核兵器や放射能の恐ろしさをありのまま伝えてほしい。訪問地の人びとの反応が薄くても、あきらめたら人類に未来はない。絶えず、ヒロシマから世界の人びとにアプローチを続けていくしかない。
【写真説明】中沢啓治さん 漫画家(64)
   
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