「私の心はいつもヒロシマとともにある」―。この言葉通り、バーバラ・レイノルズさん(一九一五―九〇年)の半生は、ヒロシマの世界化にささげられた。
バーバラさんは五一年、広島市南区の原爆傷害調査委員会(ABCC、現放射線影響研究所)研究員の夫アール・レイノルズ氏とともに広島を訪れた。五八年には、米国の水爆実験に抗議し、太平洋エニウェトク環礁の立ち入り禁止海域に、夫と一緒にヨットで乗り入れた。
広島市民との交流を深める中で、六二年には被爆者と原爆孤児の二人を伴って「ヒロシマ平和巡礼」を敢行。米英両国を巡り、スイス・ジュネーブの軍縮会議でも核実験停止などを訴えた。
さらに六四年、「広島・長崎世界平和巡礼」を提唱し、国内外の多くの人びとの協力を得て実現。被爆者や学者、通訳ら四十人が加わり、七十五日間をかけて米国、カナダ、英国、フランス、ベルギー、東西ドイツ、ソ連の八カ国を平和行脚した。
六五年には「ヒロシマの世界への窓口」として、ワールド・フレンドシップ・センターを創設。被爆者の援護活動の傍ら、世界各地からセンターを訪れる若者や学者らに、ヒロシマを深く体験するための機会を提供した。
六九年に帰国した後も、七五年にはオハイオ州ウィルミントン大学に「広島・長崎記念文庫」を開設。この年、広島市はバーバラさんの業績をたたえ特別名誉市民章を贈った。
七九年、カリフォルニア州ロングビーチに移り住んだ後は、ベトナムやカンボジアからの難民の救済に尽くした。その一方で八二年には広島の女性被爆者とワゴン車で米大陸を横断。行く先々で証言の集いを開いた。
敬虔(けいけん)なクエーカー教徒。ヒロシマの「語り部」としての活動は、心臓発作のため七十四歳で亡くなるまでやむことはなかった。
【写真説明】上=バーバラ・レイノルズさん 下=クリスマスの日、原爆の子の像前で平和祈願の断食をするバーバラ・レイノルズさん(右)と長女のジェシカさん(1961年12月25日)
   
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