タイトル小
3. ゴッホのあこがれ
「バラとアネモネを入れた日本の花瓶
(1890年、オルセー美術館蔵)
パリの美術館でゴッホ晩年の油絵を見た。日本の花瓶に咲くたくさんのバラ。ヒマワリで有名な天才画家は短い生涯の最期に、あこがれ続けたものをキャンバスにぶつけたという。それは希望の色、愛する花、夢の国日本…。
文・杉本喜信 写真・大村 博
*** 「トゲがある自分も いつか花開く」 ***
浮世映す ドービニーの庭
ゴッホが死の直前に描いた「ドービニーの庭」の現在。右上に教会の塔が見える(昨年6月、パリ郊外のオーヴェール)

 雑草が生い茂る庭に立った。手前に赤いバラ、右奥に教会の塔…。ひろしま美術館(広島市中区)に展示されている絵と、目前の風景とがピタリ重なった。

 パリの北西35キロの町オーヴェール。ビンセント・ヴァン・ゴッホ(1853〜90年)最晩年の作品「ドービニーの庭」の制作の地だ。

 ヒマワリの絵で知られる天才画家は1890年7月、2カ月余り滞在したこの町で37年の生涯を閉じた。ピストル自殺だった。

 死の直前に描かれたこの絵は、尊敬する風景画家ドービニー(1817〜78年)の別邸を明るく色彩豊かに表現している。激しいタッチ。だが弟テオへの手紙に「最も計画的に描いた画布の一つ」とある。画面中央から右にかけ、白やピンク、赤のバラが鮮やか。

 その庭から歩いて3分、ゴッホが息を引き取った下宿は当時の建物のまま博物館になっていた。

 「彼が愛した花はバラよ」。弟あての手紙などを分析している学芸員のサンドラ・ベッキューブさん(29)はそう強調する。精神を病み、生前はたった一枚しか絵が売れなかったゴッホ。「トゲがある自分もいつかきっと花開く」との思いをバラに重ねたというのだ。

 残された油彩のうち、ヒマワリが描かれているのは約20点。それに対し、バラは30点を上回る。

 「ドービニーの庭」には浮世絵の影響もみられる。建物や木々の黒い縁取りがそれだ。

 オランダ生まれのゴッホは、シーボルトらが持ち帰った日本の品々に強い関心を寄せていた。私たちは、バラと浮世絵を結ぶ糸を求め、アムステルダムにある国立ゴッホ美術館に足を延ばした。

 そこには、トゲのある木に白い花が咲く浮世絵風のゴッホの油彩があった。「花咲く梅の木」とのタイトルが付いたその絵は、歌川(安藤)広重の「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」の模写。死の3年前、パリ滞在中の1887年に描いた。

 その翌年、南フランスのアルルへ移ったゴッホは、友人の画家ベルナールにあてた手紙で浮世絵の色づかいを絶賛している。「白い花を無数に散りばめた黒いトゲのある茂みの絵などは言うまでもない」

 その「トゲのある茂みの絵」は、どの浮世絵を指すのか。美術館で、ゴッホと弟の浮世絵コレクション約500点のカタログを見た。広重の「梅」以外に、当てはまりそうな絵はなかった。

 梅の小枝はトゲに見えなくもない。ゴッホは、日本の梅にバラを見たのか―。

 ベルナールへの手紙を書いた九カ月後、ゴッホは自らの耳を切って入院。最期の地オーヴェールにたどりついた。

 「ドービニーの庭」のモデルとなった庭園は、ゴッホの死の翌年、人手に渡り、やがて荒れ果てた。今は壁や茂みに囲まれ、のぞくことすら難しい。

 撮影を許してくれた町の教育文化担当バズ・マリーさん(57)は「買い取って復元したいけれど、地主と値が折り合わなくて」と嘆く。

 庭に今もひっそり咲くバラはオールドローズの一種。ゴッホがあこがれ、自らの思いを重ねた明るい色彩の「プロバンスローズ」だ。

■ナチスの迫害逃れ 海越え広島の地に

ひろしま美術館に展示されている油彩「ドービニーの庭」(1890年)。ゴッホが描いた当時は中央にバラ花壇があった。右の垣根わきにも赤いバラが描かれている

 「ドービニーの庭」(縦53センチ、横104センチ)はヒトラーによる破壊の危機を乗り越えるなど苦難の旅を経て広島市にやってきた。

 広島大に勤めていた10年ほど前に来歴を調べた圀府寺(こうでら)司・大阪大助教授(西洋美術史)によると、絵はゴッホの没後、弟テオがドービニー夫人に寄贈した。しかし婦人も間もなく死亡。競売などを経て1929年にベルリン国立美術館に入った。

 ところが美術館ではナチスの「退廃芸術追放」に遭い没収。ヒトラーの右腕の空軍元帥ゲーリングに渡って焼却を免れ、国外に売られた。

 次に手に入れたのはユダヤ人銀行家クラマルスキー氏。オランダでナチスの侵攻に遭った彼は絵と一緒にかろうじて国外に逃れ、2度目の「危機」を回避した。

 米国に渡った一族は息子の代に絵を手放す。その後、74年に広島銀行が購入、今はひろしま美術館に展示されている。

 額縁にはドイツ語のプレート。絵の裏にはチョークで書いたクラマルスキーの住所が残っている。

ゴッホの自画像(1887年、パリ・オルセー美術館蔵)

■日本趣味の時代生きる

 後期印象派の画家ゴッホは日本趣味の時代に生きた。14歳の時の1867年。明治維新の1年前、パリ万博に徳川幕府が初めて参加し、日本ブームが起きた。32歳でパリに出た時、ブームは一層熱を帯びていた。ゴッホも浮世絵を収集し、展示会を開くほど日本に傾倒した。

 浮世絵には広重の「ばらに川蝉(かわせみ)」などバラを描いた作品もある。目に触れたかどうかは分からない。

 ゴッホは、花弁が多い特徴から「百弁バラ」と呼ばれるバラを多く描いた。初夏に咲くオールドローズ。南フランスに多いためプロバンスローズとも称される。

 四季咲き大輪の現代バラはパリ万博の年に誕生しているが、作品では確認できない。


オーヴェールの教会。「ドービニーの庭」から塔が見える
ゴッホ作「ひまわり、ばらなどの花たち」=部分(1886年、ドイツ・マンハイム市立美術館蔵)
浮世絵「亀戸梅屋舗」の模写。左右の漢字は原画にはなく、ゴッホのアイデアだ(1887年、オランダ国立ゴッホ美術館蔵)
ゴッホの墓。造花のバラが供えられていた(オーヴェール)

2001.1.21

BACK INDEX NEXT