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堤防の上に延びるハマナス。紅紫の色の花を咲かせていた(昨年6月、アムステルダム郊外のフォーレンダム)
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大ぶりな紅紫色の花が、北海から吹く風に揺れる。アムステルダムの北25キロの港町フォーレンダム。堤防の上、延長500メートルにわたってハマナスが咲く。
北海道から島根県の砂浜に自生する日本原生種。オランダでは「ヤポンス(ジャパニーズ)ボトルローズ」と呼ぶ。「実がつく日本のバラ」。道路沿いなどによく見られ、この街でも街路樹の1割を占める。
堤防沿いに住む主婦セトラ・フィーマンさん(59)は野性的な姿が気に入っている。「香りがいい。赤い実も美しい。春から秋まで楽しめて、チューリップよりすてき」と褒めた。
オランダといえば、チューリップではないのか。思わぬ賞賛に驚きながら、私たちは学都ライデンに向かった。
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川原慶賀が1840年ごろ描いた出島。島の左側が植物の栽培地(ライデン国立民族学博物館蔵)
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運河に囲まれたライデン市は長崎・出島のオランダ商館医シーボルト(1796〜1866年)が帰国後に住んだ町である。市内の大学や博物館は、植物や民具など2万点を超える彼の収集品を中心にした日本コレクションで知られる。
訪れた昨年6月は、市挙げての「日本との交流四百周年記念展」の最中。到着してすぐ、駅の展示コーナーでハマナスの乾燥標本を見つけた。「Siebold 1829」の文字があった。
1829年と言えば、禁制品の地図を持ち出そうとしたシーボルトが幕府の取り調べを受け、国外追放を命じられた年だ。
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バラの花束を手にしたライデン大医学部の卒業生と家族
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この時、彼は33歳。オランダの内務大臣にあてた晩年の手紙に「13カ月間、出島の家に閉じ込められたが、植物を乾燥させ(略)気力を落とさなかった」とある。出島では当時、数百種類の日本の植物を栽培し、ハマナスもあった。
標本には、直径8センチの花が3輪。幽閉されたシーボルトの心の支えは、170年後の今も、かすかに紅色を残していた。
日本を追われた彼は、持ち帰った植物を育てる温室をライデンに設けた。出島を通じて新たな花木も手に入れ、種苗の通信販売に乗り出す。王立園芸奨励協会を組織して会長になり、日本の植物の普及に努めた。
ライデン国立植物標本館には、当時の「日本植物販売目録」が残る。ハマナスは1856年に初登場。人気が出たのか、72年には2倍に値上がりしている。
「オランダのような寒い国で、いろいろなバラが楽しめるのはシーボルトのおかげよ」。ライデン大学付属植物園の主任カーラ・タウナさん(57)は教えてくれた。ハマナスは、ほかのバラと掛け合わされ、耐寒性などの面で改良に役立った。
植物園の前にはこの日、カラフルなバラの花束を手にした医学生が大勢いた。卒業式。シーボルトの日本土産が晴れの日に彩りを添える。
オランダの人々の苦楽を見詰めてきたハマナス。それが街路樹に多いのはなぜだろうか。写真を撮ったフォーレンダムの役場に電話を入れてみた。
担当のペーター・スキーリング街路樹管理課長はこともなげに答えた。「しっかり根を張り、手入れが簡単で美しい。土手や堤防を固めるのにぴったりだからね」。堤防を築き、干拓をして営々と国土を広げてきたオランダらしい。
しかし、スキーリング課長は、シーボルトが導入したとは知らなかった。ハマナスは歳月を経て、すっかりこの地に根付いていた。
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ハマナスの花(左)と実(右) (フォーレンダム)
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■通販普及 実はジャムに
ハマナスの学名は「ロサ・ルゴサ」。葉にしわがあるバラ、という意味だ。シーボルトの約50年前、1775年に来日したオランダ商館医ツュンベリーが名づけた。良く枝分かれし、春から夏に直径約8センチの花をつける。
欧州への普及はシーボルトの通信販売以降。19世紀末から盛んに交配され、「ハイブリッド・ルゴサ」と呼ばれるバラの一群ができた。フランス北部から北欧の道路によく植えられている。切り花の改良にも貢献。赤い実は観賞後、摘み取ってジャムにするのが一般的だ。
和名は「浜梨(はまなし)」のなまりで、実の形が同じバラ科のナシに似ている点から付いた、とされる。現在、日本の自生南限地は大田市の静間海岸。静間小学校の児童が保護活動を続けている。
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■1000種以上を移植 欧州に園芸ブーム
アジサイに囲まれたシーボルトの胸像(ライデン大学付属植物園)
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1892年のハマナス標本。右下に小さく「Siebold」とある。「ナツツバキ」は誤記
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19世紀以降、欧州で盛んになった園芸は、シーボルト抜きには語れない。「日本の花栽培家はいくら賞賛しても足りないくらいだ。庭園や植物は実に素晴らしい」。こう記した彼は、鎖国中の1823年と幕末の59年に来日し、植物採集に努めた。
川原慶賀が描いたハマナス。当時、〓瑰(まいかい)とも呼ばれた(ロシア・コマロフ植物研究所蔵)=「Siebold's Florilegium of Japanese Plants」から
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石山禎一・東海大講師(海外交渉史)によると、植物の種類が少ないドイツ出身のシーボルトは、日本の花木の多彩さ、盆栽などの栽培技術に感心。計9年間の滞在中や、その後も弟子たちの協力を得て、1000種以上をオランダに移植した。
海路はるばる到着したのは、妻の名「お滝さん」にちなみ「Otakusa」と学名をつけたアジサイや、欧州で人気のカノコユリなど。花以外にもモミジやアオキ、大豆などがある。
彼はそのうちハマナスをはじめ150種をカラー図版入りの著書「日本植物誌」で紹介。画家川原慶賀の写生図を基にした本は欧州の園芸ブームのきっかけをつくった。
シーボルトは川原らと一緒に江戸に赴いた帰路、瀬戸内海を通り、鞆(福山市)や御手洗(広島県豊町)、上関(山口県上関町)にも立ち寄り、植生を観察している。
【お断り】〓は「王」へんに「攻」のつくり(右側)を書きますが、JISコードにないため、表示できません。
2001.2.3