タイトル小
6. 善人チョウノスキー
チョウノスケソウ
(長野県・木曽駒ケ岳)
バラ科の小低木チョウノスケソウは、高山地帯で淡黄の花を咲かせる。命名者は植物分類学者として著名な牧野富太郎だが、この花を発見したのは須川長之助。幕末の函館でロシア人学者から手ほどきを受けた無名の長之助は、後に日本一の植物採集家となっていく。
文 ・江種則貴 写真・松元 潮、大村 博
*** 「神を信じるものに悪人はいない」 ***
露学者が指南 五徳の採集家
長之助の植物採集が始まったハリストス正教会。ノイバラが白い花を咲かせていた(函館市)

 幕末1860年、鎖国が解かれ、開港して間もない北海道の箱館(現・函館)に、ハリストス正教会が完成した。聖堂の鐘が奏でる音から「ガンガン寺」と呼ばれたロシア正教の教会である。

 一人の日本人青年が迷い込んできた。18歳の須川長之助。日本一の植物採集家「チョウノスキー」の誕生は、異国情緒の鐘の音が誘った偶然の産物かもしれない。

 折しも、教会と隣り合うロシア領事館に、日本の文化勲章に相当するロシアのデミドフ賞を受けたばかりのマクシモヴィッチが滞在していた。当時33歳、新進気鋭の植物学者は、日本での助手兼召し使いとして早速、長之助を雇った。

 「神を信じるものに悪人はいない」が採用理由だったと伝えられる。

 とはいえ「善人テスト」があったらしい。マクシモヴィッチはわざと財布や金銭を置いたまま部屋を空け、長之助に掃除を命じた。都合4回も繰り返されたテストに、長之助も最後は「我慢ならねえ。帰る」と怒った。マクシモヴィッチは無礼をわび、以来「チョウノスキー」と愛称で呼び、そして植物採集の基礎をたたきこんだ。

長之助の植物採集を支えた竹かさ、移植ゴテ、薬ろう(岩手県紫波町の水分公民館)

 外来文化があふれ、開港景気にわく箱館。長之助はデカセギのはしりでもあった。出身は岩手県中部の紫波町。モチ米田が広がる北上盆地に、生家や墓、顕彰碑や記念碑が点在する。

 「正直、誠実、努力、忍耐、勉学。長之助さんは五徳の人であり、郷土の誇りだ」。長之助顕彰会の事務局を務める泉舘重雄さん(73)は、公民館の展示ケースから遺品を取り出した。竹かさ、ロシア製とみられる移植ゴテ、薬ろう…。

 長之助に魅せられたもう一人は盛岡市郊外、岩手植物の会顧問の井上幸三さん(95)。長之助にまつわる自費出版や研究論文は30編を超え、5年前にも「日露植物学会の交流史」を出版した。

 「長之助はほとんど文字を残していない。苦手だったようだ」。植物分類に重要な採集記録も、別の助手たちにゆだねていた。足跡を調べてもなお、追いかけきれないもどかしさ。それが井上さんの研究を後押しする。

 採集した植物は、すぐに押し花にしないとしおれてしまう。炭火で鉄板を温め、紙を乾燥させることから作業は始まる。

 長之助とマクシモヴィッチは、函館を拠点に北海道南部を歩き、横浜や九州も旅した。2度目の来日中のシーボルトに長崎で面会し、草花への博識ぶりで驚かせたとのエピソードも伝わる。

 3年4カ月間の滞在を終えて帰国したマクシモヴィッチは、その後も東洋の植物研究を続け、長之助は彼からの採集依頼を受けて全国を回った。富山県の立山で長之助が発見し、牧野富太郎が和名をつけたチョウノスケソウについて、マクシモヴィッチも学会で発表しようとした。だが、その矢先の1891年、63歳で亡くなった。

 長之助はぷっつり採集をやめ、農業で83歳までの余生を送った。「子どもの教育には厳しい人だった」。紫波町の生家で、孫の孫に当たる博史さん(63)が晩年の長之助の人柄を語り継ぐ。

90歳を超えても長之助の研究を続ける井上さん(岩手県滝沢村) 長之助の足跡をたどる木村さん(中央)たち。ハマナスが見守る(函館市)

 長之助が迷い込んだハリストス正教会。敷地内でいま、ノイバラが咲き誇る。裏手には四季折々の緑が映える函館山。若き日の長之助が採集のイロハを学んだ場所だ。

 市の函館山管理事務所で自然観察指導員を務める木村マサ子さん(55)も、長之助の足跡をたどる一人。市民を誘って長之助講座を開く。4年前には出身地の紫波町も訪ねた。函館山の野バラを携えて。

 長之助の集めた標本は、ロシアや英国に残る。うち10種類以上の学名に、マクシモヴィッチや後世の学者は「チョウノスキー」の愛称を付けた。長之助自身は寡黙でも、ラテン語の学名が雄弁に、彼の功績を物語る。

■立山で発見「チョウノスケソウ」

長之助(左)とマクシモヴィッチ(右)が彫られた顕彰碑(紫波町の城山公園)

 チョウノスケソウは、マクシモヴィッチの帰国後、長之助が1889年に富山県の立山で発見。標本を入手したマクシモヴィッチは「ドリアス・チョウノスキー・マキシム」の学名で発表する準備をしていたとされる。

 学名は著名な植物学者リンネが付けた「ドリアス(森の精)・オクトペタラ(8枚の花びら)」。長之助が日本に残した控えの標本を見た牧野富太郎が和名を付けた。

 学会では、欧州に咲くのと同種か別種かの議論があり、現在は変種扱いでほぼ定着している。

 一方、「チョウノスキー」の学名が付く植物は、和名でコメツツジ、オオヒョタンボク、イヌシデ、ミネカエデ、シロバナエンレイソウ、オオメバキ、ウサギギク、ニッコウザクラなどがある。

須川長之助略年譜
1842年 2月  岩手県下松本村(現・紫波町)に生まれる
 59年 8月  シーボルトが2度目の来日
 60年 9月  マクシモヴィッチが箱館に上陸。長之助を助手に雇う
 61年 11月  箱館を出発、横浜へ
 62年    箱根などで植物採集。長崎へ
 63年    阿蘇山など九州各地で採集
 64年 2月  マクシモヴィッチが横浜から帰国。長之助は全国で採集続ける
 68年 9月  明治維新
 89年    立山でチョウソスケソウを採集
 91年 2月  マクシモヴィッチ死去、63歳
1925年 2月  長之助死去、83歳
 78年    紫波町の名誉町民に
長之助はロシア正教の信徒となった。墓銘に「神子但以理(かみのこダニエル)」と洗礼名がある(紫波町)
 
長之助翁寿碑の碑文掛け軸を持つ須川博史さん(紫波町の生家)

■「東亜植物の父」マクシモヴィッチ ―来日し分類研究 牧野博士も信頼

 江戸時代に西洋から来日した主な植物学者は、時代順にケンペル(ドイツ人)、ツュンベリー(スウェーデン人)シーボルト(ドイツ人)と続く。いずれもオランダ商館医として鎖国をかいくぐり、滞在した長崎・出島や江戸との往復の道中で植物を集めた。

 開国後に日本に真っ先に訪れたのがマクシモヴィッチ。その後も、フランス人の医師サバチエや宣教師フォーリが明治初期にかけて来日した。長崎や東海道以外も含めて広範囲に日本の植物を調べたこの3人のうち、自ら植物分類を研究したのはマクシモヴィッチだけ。フランスの2人はもっぱら採集役で、研究は別の学者にゆだねている。

 このためマクシモヴィッチは「東亜植物の父」と呼ばれ、明治時代の日本の植物学者が国内で採集した標本をはるばるロシアの彼のもとへ送り、種の特定を依頼するケースも頻繁にあった。牧野富太郎は彼とともに研究しようとロシアに亡命を計画したことさえある。

 英ロンドンの自然史博物館には「マクシモヴィッチ、函館、1861年」と記されたハマナスの標本が残る。長之助の採集品の一つであろう。また、ロシア・サンクトペテルブルクには、マクシモヴィッチが散逸を防ぐために収集したシーボルトの「日本植物誌」の原画が保存されている。

2001.2.11

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