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マルメゾンの館。当時のまま残る建物を背に、新郎新婦が記念撮影をしていた(パリ郊外)
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二人の門出を祝うかのようにバラが咲いていた。パリの西約20キロ、皇帝ナポレオン一世(1769〜1821年)夫妻が住んだマルメゾンの館(やかた)である。敷地6ヘクタールの大邸宅は博物館になり、新郎新婦の記念撮影に人気の庭園が広がる。
フランス革命が終幕を迎えていた1799年4月。着飾った女性がこの館を訪れた。エジプト遠征中のナポレオンの妻ジョゼフィーヌ(1763〜1814年)である。
「広い庭がすてきね」。持ち前の愛想の良さで管理人に手付金の立て替えを頼み、住みついてしまう。代金の32万5000フラン、今の日本なら数十億円はあとで夫が払うことになる。
中米カリブ海の常夏の島、フランス領マルチニック島の貴族タッシェ家に生まれた彼女は、緑あふれる古里の風景の再現を試みた。世界中から珍しい植物を集め、とりわけバラにこだわった。
というのも、彼女の本当の名前は「ローズ」(バラ)だったから。生まれた時の「マリー・ジョゼフ・ローズ」を、何でも思い通りにした夫が結婚の際「ジョゼフィーヌ」に変えたのだった。
1804年、ナポレオンの皇帝即位と同時に、島の娘ローズは皇后になる。無邪気で浪費家。バラ収集熱はどんどん高まった。
夫が大陸封鎖令を出し、国民に英国との貿易を禁じているにもかかわらず、新品種と聞くとロンドンからドーバー海峡経由で苗を運ばせた。
1年に1度しか咲かない当時のバラに「四季咲き」の革命をもたらした中国原産のコウシンバラも、このルートで導入されたようだ。
やがて庭園のバラは250種ほどに増えた。赤バラのガリカ、白バラのアルバ、日本産のハマナス…。ジョゼフィーヌは多くの園芸家を抱え、より美しいバラづくりに打ち込ませる。
その一人が、人工授粉による品種改良を本格化させたアンドレ・デュポン。彼は花粉の運搬を昆虫に任せる時代に終止符を打ち、今に至る品種改良の礎を築いた。
マルメゾンがバラの歴史の転換点、革命の地とされるゆえんである。
世界一のバラコレクションのほか、ドレス900着、靴500足…。栄華を極めた彼女にも悩みがあった。ナポレオンとの間に子供ができなかったことだ。不安は的中し、1809年に離婚を突き付けられる。夫婦生活は13年半で終わった。
46歳のジョゼフィーヌはマルメゾンに引きこもり、新たに大温室を建てるなどますます植物に愛情を注いだ。そして5年後に病死した。
「決して裏切らない、永遠に美しい私の子供たち」。晩年、バラにこんな思いを寄せて慈しんでいたという。「この年になると彼女の気持ちがよく分かるの」。30年間、マルメゾンで案内係をしているクリスチャンヌ・ドンドレさん(57)はしみじみ語ってくれた。
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マルメゾンのバラ園を再現したライ・レ・ローズ市のバラ園(パリ近郊)
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マルメゾンのバラ園は普仏戦争時の1871年、侵攻して来たプロイセン軍に踏み荒らされた。
しかし、その多くがパリの南8キロのライ・レ・ローズ市のバラ園に残されていると聞き、車を飛ばした。
3100種類、1万6000株のバラ。うちジョゼフィーヌが収集したバラが約200種類あった。パリの百貨店「オー・ボン・マルシェ」の創業者でバラ愛好家のジュール・グラルボーが20世紀初めに再収集したという。
マルメゾンのバラ庭園は、ローズ市のバラ園からの移植で復元中
だ。
「愛の花が育った庭だから」と新婦のフローランタン・バレリさん(29)がカメラに納まる。ウエディングドレスが、楽しげに揺れている。
点刻技法を駆使 当時の花姿
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ルドゥーテ
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色鮮やかに表現 図譜に記録
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中国原産のコウシンバラ(ピンク)と中東原産のロサ・フェテイダ(黄)=「美花選」から
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ジョゼフィーヌは、収集したバラのコレクションを、植物画の第一人者ピエール・ルドゥーテ(1759〜1840年)に描かせた。
「花のラファエロ」とたたえられた彼の代表作「バラ図譜」がそれ。品種改良による園芸化が始まったころの花姿を伝える貴重な記録である。
縦54センチ、横36センチの多色刷り銅版画。1ページに1点ずつ、当時主流だったダマスクなど169種類のバラが色鮮やかに刷ってある。
技術面でも革新的だ。色と形を細かい点で表す点刻技法を究め、この種の植物画で初めて輪郭線なしで描いている。
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ダマスク。18世紀の主な庭園バラ=「バラ図譜」から
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彼は、平均的労働者の35倍、年俸1万8000フランをもらう皇后付き絵師だった。1814年春、図譜の制作をジョゼフィーヌに持ちかけ快諾を得るが、彼女は5月に亡くなる。
後ろ盾を失ったルドゥーテは自ら費用を工面。図譜は1817年から8年間かけて30分冊で出版された。亡き皇后にささげるまでに10年の歳月を要したことになる。
バラ図譜は、その後に出した「美花選」などと共に版を重ねていく。庶民にバラ栽培を広め、ジョゼフィーヌの名声を高める役割も果たした。
〈掲載のルドゥーテの絵はいずれも、米ハント財団蔵。集英社「バラの美術館」から転載〉
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ジョゼフィーヌが使ったベッド(マルメゾン博物館)
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バラを手にしたナポレオンとジョゼフィーヌ(右端)=部分(マルメゾン博物館蔵)
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ナポレオン夫妻が使ったバラなど花の絵皿(マルメゾン博物館蔵)
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■フランス革命とナポレオン
ジョゼフィーヌがパリに出た10年後の1789年、26歳の年にフランス革命が始まった。貴族だった最初の夫は処刑され、自分も投獄される。32歳で将軍ナポレオンと再婚した。
夫のナポレオンはエジプト遠征から戻った99年、クーデターで革命を終結させ、後に皇帝に即位した。離婚後にロシアに遠征するが惨敗し、1814年失脚。この年、ジョゼフィーヌは侵攻してきたロシア皇帝をもてなした後、肺炎で死亡する。
後に即位するナポレオン三世は、彼女が最初の夫との間にもうけた娘と、ナポレオンの弟との間に生まれた孫。マルメゾンの庭園を荒らすいたずらっ子で、彼女はことのほかこの孫をかわいがったという。
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2001.2.18