夕陽の潟。光と影が織り成す神秘に、耽美たんび)派白秋ならずともみとれる(柳川市)
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立待岬のハマナス。漂白の詩人啄木の古里は、暗い津軽海峡の向こうにある(函館市)
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ハマナスの花は一斉に咲かない。一つ花びらが散るころ、次のつぼみが膨らんでくる。それは種を守る本能、という。
夕暮れの津軽海峡に、イカ釣り舟の漁(いさり)火がともった。北海道函館市の立待岬。強い浜風に負けずハマナスが、がけの縁にしがみつく。
潮かをる北の浜辺の
砂山のかの浜薔薇(はまなす)よ
今年も咲けるや
石川啄木(1886〜1912年)は、函館に咲くハマナスをそう詠んだ。砂山があったのは、立待岬近くの大森浜。岬に残る野生のハマナスは、浜にはもうない。
貧しさゆえに古里の岩手県渋民村を飛び出し、函館にわたった啄木。新聞社に職を得て文学仲間と交流したが、1907年の大火で函館滞在はわずか132日。漂泊の人生はその後も続いた。
函館の青柳町こそかなしけれ
友の恋歌
矢ぐるまの花
後に東京に向かった啄木は、九州からやはり創作の地を求めて上京した一つ年上の詩人と親交を温めた。
北原白秋(1885〜1942年)。啄木は白秋の最初の詩集『邪宗門』に「今後の新しい詩の基礎となるべきものだ」と賛辞を贈り、白秋は啄木の就職を黒ビールで祝い、東京・浅草の遊園地でメリーゴーラウンドに乗って戯れている。
しかし、生き急いだ啄木は間もなく26歳の生涯を閉じた。白秋はその後の30年間、詩だけでなく、短歌や童謡にも才能をあふれさせた。
まるでハマナスのような二人。
白秋もバラを詠んでいる。『薔薇(ばら)二曲』と題したシンプルな詩。
一
薔薇ノ木ニ
薔薇ノ花咲ク。
ナニゴトノ不思議ナケレド。
二
薔薇ノ花。
ナニゴトノ不思議ナケレド。
照リ極マレバ木ヨリコボルル。
光リコボルル。
白秋は後日、この作品を自ら解説している。
「(薔薇の花が咲くのは)実に驚異すべき一大事実ではないか。この神秘はどこから来る。この驚きを驚きとする心からこそ宗教も哲学も詩歌も自然科学も生まれて来るのではないか。この真理。この顕現」
白秋が幼いころ「象の肌のよう」と嫌った生地福岡県柳川市の有明海の潟。晩年、古里恋しさに詠んだ『帰去来』では「恋(こ)ほしよ潮の落差」「火照沁(ほでりし)む夕日の潟」と懐かしんだ。
その潟に沈む夕日。黄金の光が神々しい。沖にはノリひび。諫湾干拓の影響か、今年は不作とのニュースが伝わる。
夕日もバラも、堰(せき)一つで海が変わるのも、白秋の言葉にならえば「驚きにため息」する自然の神秘―。
■バラ愛した詩歌人たち
啄木や白秋は東京で、与謝野寛(鉄幹)、晶子夫妻が主宰する「明星」に出入りした。晶子にも『薔薇の歌・八章』と題した作品がある。
「今朝、わが家の/どの室の薔薇も、/皆、唇なり。(中略)あはれ、何たる、/若やかに、/好色好色(すきすき)しき/微風ならん。(後略)」
一方、啄木や白秋と同世代の詩人に、ともに「スバル」を発刊した木下杢太郎(1885〜1945年)もいた。医者、劇作家、評論家と多能な杢太郎の最後の作品が写生画集『百花譜』。第二次大戦中、路傍の草花をスケッチした。872枚の作品には、ハマナスやテリハノイバラも含まれる。
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2001.2.25