タイトル小
9. ゲーテの恋は数あれど
「野ばら」を歌う村の人たち
フランス・ストラスブール郊外の村で、ゲーテ作詩『野ばら』の合唱を聞いた。「悲しい恋の詩だけれど、今は村の誇り。よく歌うんだ」。詩人ゆかりの教会の裏にあるバラの花咲く庭。洗礼の祝宴を開いていた村人たちは優美なウェルナーの曲で歓迎してくれた。
文・杉本喜信、江種則貴 写真・松元 潮、大村 博
*** 「おまえを折るよ」「刺してあげるわ」 ***
「野ばらに」に秘められた悲恋
教会の裏手に咲くバラ。ゲーテは牧師の娘と恋に落ち、『野ばら』の詩を生み出した(フランス・ゼーゼンハイム村)
ゲーテの肖像画(左)とフリーデリーケの肖像画(いずれもゼーゼンハイム村のゲーテ資料館)

 教会の裏手で、濃い紅色のバラが今を盛りと咲いている。フランス東部、ストラスブールの北約30キロのゼーゼンハイム村。ドイツの文豪ヨハン・ゲーテ(1749〜1832年)が、彼の作品の中で最も有名な『野ばら』の詩を生んだ国境の地である。

 1770年秋、ストラスブール大学の法学生だったゲーテは、友人に連れられてここを訪れ、村の牧師の娘フリーデリーケ・ブリオン(1752〜1813年)に出会う。

 目は青く、ブロンドのお下げ髪。「片田舎の天空にたまらなく愛らしい星が立ち昇った」(『詩と真実』)。21歳の文学青年は、素朴でつつましい18歳の少女に一目ぼれする。訪問を重ね、彼女も愛を受け入れた。時は、花咲き小鳥さえずる新緑のころ。

 「ほとばしり出る/胸の喜び/おお大地よ/おお太陽よ/おお幸福よ/おお歓喜よ」(『五月の歌』)。輝く緑と高ぶる心が創作意欲をかきたて、愛と自然をたたえた叙情詩人がここに誕生した。やがて彼は恋人への思いを、土地の民謡を下敷きにしたバラの詩に結晶させる。

童(わらべ)は見たり 野なかの薔薇(ばら)
清らかに咲ける その色愛(め)でつ
飽かずながむ
野なかの薔薇
     (近藤疎風訳)

 しかし出会いからほぼ1年後の71年8月、ゲーテは、結婚を望むフリーデリーケのもとから逃げるように去ってしまう。恋多き詩人は束縛を嫌ったのだ。

 後にドイツ東部、ワイマール公国で財務大臣を務め、植物学にも造けいが深かったゲーテは、数々の女性を愛したのと同じように、いろいろなバラを集め、育てた。

 晩年、彼は秘書に語っている。「私はバラの花を愛する。バラは自然からの一番すばらしい贈り物だから」。ワイマール市の園芸文化担当ドロテー・アーレントさん(50)が街を案内しながら教えてくれた。

 街中のゲーテの邸宅には、赤や白、ピンクの古い園芸バラが残り、街はずれの別荘には、彼が植えた野生的な赤紫のつるバラが咲いていた。

ゲーテが別荘に植えたつるバラ。今も赤紫の花を咲かせる
ゲーテの別荘。当時、バラが外壁を覆っていた。今は植生の復元中(ドイツ・ワイマール市)

 『野ばら』の詩には続きがある。「おまえを折るよ」「刺してあげるわ、私を忘れぬように」「嘆いても叫んでもむだだった。野薔薇はやっぱり折られてしまった」―。

 ゲーテは『ファウスト』の中で「谷という谷に咲き満ちていた花々を手折ったあの時代」と若き日々を記す。

 多くの恋を重ねた彼は57歳で結婚し、妻に先立たれた後も、72歳で17歳の少女に求婚するなど晩年まで「青春」を生きた。

 一方、傷つきながらもゲーテを忘れられないフリーデリーケは、リボン作りで生計を立て、独身のまま生涯を終える。

 「偉大な詩人の才能を花開かせた女性がここにいた」。ゼーゼンハイム村のゲーテ資料館は、悲恋の物語をこう結んでいた。

ゲーテが愛したといわれる古い園芸バラ
インカールナータ
(化身)
アミーリア
(勤勉)
ノブレス
(気品)

シューベルト、ウェルナー…

『野ばら』 世界に154曲
― 札幌の坂西さん 91曲の楽譜集め出版 ―

 ウェルナーは六拍子、シューベルトは四拍子。日本でもゲーテの古里ドイツでも、『野ばら』と言えばこの二人。

40年かけて「野ばら」の楽譜91曲を集めた坂西さん

 ところが何と、154曲あるのだという。うち91曲の楽譜を集め、出版した人が日本にいる。偉業をなしとげたのは札幌市に住む元大学教授坂西八郎さん(69)。

 ドイツ民謡を研究していた坂西さんは1961年、文献で3曲目の『野ばら』に出会った。ライヒャルトという作曲者名はともかく「4曲目、5曲目もあるのでは」。にわかに興味が募る。

 ドイツ語圏の大学や公文書館へ、坂西さんの「紙つぶて作戦」が始まった。こつこつ問い合わせ作業を15年ほど続け、数十曲の存在を確認したころ、モーザー著『ゲーテと音楽』(1949年)に154曲との記述を見つけた。だが、旋律や作曲者名を明示しているわけではない。坂西さんはドイツや日本で研究パートナーを募り、さらに探求の旅を続けた。ドイツ東西分裂時代の影響もあって資料は散逸し、収集は困難を極めた。

 88曲の存在を確認し、楽譜集として出版したのが87年、さらに3曲を見つけ4年前に91曲集へと改訂した。

 あのベートーベンの未完成の作品もある。曲づくりを三度試みたが、その都度、メロディーは途切れる。苦悩の作曲家ならではだろうか。

 リート(ピアノ伴奏付き独唱曲)好きのドイツの人たちにとって、詩とは旋律を付けて歌うもの、歌い継いでいくもの。『野ばら』が愛され広まったのは、そこに描かれた物語が「若い男女の愛の芽生えと葛藤(かっとう)、そして破局」という普遍的なテーマであることに加え、そうしたドイツリート文化の伝統が背景にあるとされる。

 「ドイツ民衆文化の地下水脈」。坂西さんは91種の旋律をそう表現する。

3回目の欧州演奏ツアーを控え、練習に励む野ばら合唱団(北海道北広島市)

 楽譜集は反響を呼んだ。北海道を中心に歌声が響き始め、全曲通しのコンサートを最初に実現したのは北広島市在住のソプラノ歌手で音大教授、岡元真理子さんたち。96年、北広島市の市制施行記念コンサートで、2日間歌い通した。

 岡元さんはその後、コーラス好きの人たちと「野ばら合唱団」を結成。2度の欧州コーラス旅行に出かけた。各地のホールや街角、駅の雑踏で、その地ゆかりの『野ばら』を歌う。この秋、3回目ツアーに出発する。

 岡元さんたちが練習する北広島市の音楽ホール。高低強弱さまざまに、強くやさしく響き渡る歌声が、「あふれ出す地下水脈」を思わせる。

 なぜ集め、なぜ歌う? との愚問に、坂西さんも岡元さんも、にこやかにこう答えるばかり。

 歌われてこそ『野ばら』。 歌ってこそ『野ばら』。

2001.3.4

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