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青空に咲くヒロシマ・チルドレン。被爆から半世紀を超えた今、ヒロシマの復興と平和の願いを伝える(広島市東区)
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米軍兵士たちの聞くラジオから、陽気でコミカルな女性の声が流れる。「はーい、あなたのお気に入り、孤児のアンよ」。
太平洋戦争で日本の敗色が濃くなった1943年、南太平洋向けにその番組「ゼロ・アワー」は始まった。米軍兵士に郷愁を覚えさせ、戦意を喪失させようという日本発の謀略宣伝放送だった。
なかでも、音楽コーナーを担当した「孤児のアン」の声は人気を集めた。たちまちGIたちは、彼女にこんな愛称を付けたという。
「東京ローズ」。声の主は、日系二世のアイバ・トグリ・ダキノさん。
なぜ、兵士たちはローズと呼んだのか。言葉の響きがどことなく甘美だからだろうか。あでやかなバラの花姿からの連想か、それとも官能の香りのせいだろうか。
日本にとって敗戦、広島にとって忌まわしい原爆投下から4年後、被爆地に「広島ローズ」と呼ばれた女性が現れた。49年の原爆の日に発行された広島平和記念都市建設記念切手。その図柄に登場する女性である。
半世紀を超えた今、図柄をデザインした元郵政省主任技芸官、渡辺三郎さんは東京都内に健在だった。総務省を通じて渡辺さんは「高齢だから取材は勘弁して」と断りつつも、制作意図をこう伝えてくれた。「平和を祈る女神をイメージした。広島の復興を願う思いを込めてつくった」。そして「バラを持たせた理由? 特にありません」。
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上=バラを持つ女性が描かれた49年の「広島平和記念都市建設記念」切手
下=同じ49年に発行された「長崎国際文化都市建設記念」切手
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被爆地では当時、渡辺さんの意図は十分に伝わらなかったようだ。「まるで進駐軍の兵士に媚(こび)を売る女性の姿ではないか」との声が広がった。
ケロイドの身を公衆にさらして被爆の不条理を訴え、「原爆1号」と呼ばれた故吉川清さんも、そうした批判的な見方をした一人。原爆ドームそばに開いた吉川さんの売店に、切手も展示してあったという。
「ええ、この図柄は私も記憶にあります。評価はともかく、後世に残さなければと主人は大切にしていましたよ」。自らも被爆し、体験証言活動を今も続ける妻の生美さん(79)は振り返る。
占領下の時代、確かにさまざまな女性がいた。生美さんは「いろんな事情はあるのでしょう。でも、戦争に負けたとはいえ、日本女性は毅然(きぜん)とした態度であってほしいと感じていました」
石本美由起さん作詞の「薔薇(ばら)を召しませ」という歌も、切手と同じ49年だった。「君よ青春の 紅(あか)いバラ」と小畑実さんが歌った。昭和時代の歌謡曲を代表する「青い山脈」も、やはりこの年。藤山一郎さんは「バラ色雲へ」との一節をさわやかにハミングした。
少しずつ戦後復興が進み、人々はバラの姿や色に、明るい未来すなわち平和をイメージしたのだろうか。
だが、やはり同じ49年、戦争の残した傷は「東京ローズ」の運命の歯車をきしませる。戦時中、日本にいながら米国籍を手放そうとせず、戦後、愛する祖国・米国に帰った日系二世のトグリさん対し、米国は日本の対米謀略の一翼を担ったとして「反逆罪」に問い、禁固10年、罰金1万ドルの有罪判決を言い渡した。
トグリさんがフォード大統領の特赦で市民権を回復したのは77年のことである。日本では、森繁久弥さんの「知床旅情」や布施明さんの「君は薔薇より美しい」がヒットした70年代。世界は「核の均衡抑止で平和を保つ」との名分で、広島型原爆5万発分の核兵器を開発・保有していたのである。
「核の冬」の足音が間近に迫っていた。ヒロシマには、各国から届いたバラが平和を願って咲き始めていた。
■バラの図案 戦後初登場
戦前の日本の記念切手は必ず、菊の紋章入りだった。バラの図案が初めて登場するのは、戦後1947の「日本国憲法施行記念」が第1号。2枚組みのうち1枚に「五月の花束」が描かれ、ツバキやツツジに交じって野バラがあった。
続いて49年の「広島平和記念都市建設記念」、69年の「第52回ライオンズ世界大会記念」、71年の「調停制度創設五十周年記念」、2000年の「ふるさと切手・東京都」などの記念切手にバラの図柄が登場する。桜などに比べればバラは少なく、切手図案をデザインする総務省の6人の現役技芸官の一人、兼松史晃さん(43)は「バラは日本固有種ではないとのイメージが強いから」と説明している。
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2001.4.8